泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
2−3
朝から夜まで


 声にならない声が、耳に届いた――気がした。
「どしたの、亘理」
 隣を歩いていた香佑が首をかしげる。時刻は八時半、一限が始まる前だが、比較的人は多かった。廊下は授業の準備をする学生で溢れている。次の授業は必修だ、多いのも当然か。
「いや、」
 また、聞こえる。かすれたはいたが、今度ははっきりと悲鳴の形を取っていた。香佑もそれに気づいたのだろう、あれ、と険しい表情で指を差す。
 視線のずっと向こう側、廊下の一番端にあるロッカーを取り囲むように、野次馬が集まっている。その中心に、彼女がいた。
 顔色が悪い。驚くほど真っ蒼だ。目に見えるほど震えて立ちすくんでいる。胸に抱かれた黒いかばん、ファスナーからはみ出しているのは。
「ッ、悪趣味だわ……女の子のロッカーにあんなもの入れるなんて」
 香佑も一つ舌打ちし、眉間にしわを寄せて呻いた。金色の裂け目からのぞくのは、生後二、三ヶ月ほどの黒猫の脚だった。硬く伸ばされ、ピクリとも動かない。既に命の宿らないものであることは明確だった。
 周囲はそれを面白がるように眺め、時折ひそひそと友人に話したりするだけである。散乱した教科書、取り落としたかばん、誰もそれを拾おうとしない。あまつさえ笑っている奴までいる。彼女のそばにいる男子学生も、不気味な薄笑いを浮かべていた。
 『奴』がやったのか? あれも演技なのだろうか。それにしては動揺しすぎている。『奴』ならば、あんなに狼狽したりすることなどありえない。玩具という可能性は? いや、あの毛並みが偽者のはずがない。恐らくは野良猫の子どもをさらってきて、あんな――
 彼女の体が、大きく傾いた。
「亘理っ!!」
 香佑が叫ぶ、と同時に背中を思い切り蹴り飛ばされた。そして乱暴に野次馬の群れをかきわけ、強引に道を開いてくれる。蹴られた反動で二、三歩前につんのめるが、それが結果としてよかった。
 勢いを殺さぬよう彼女に駆け寄り、寸前のところで抱きとめる。こうやって直接触れるのは初めてだ。思っていた以上に肩は細く、どこか華奢な印象を拭えない。『奴』のそれとは思えない。
 シフォンのスカートがふわりと広がり、しなやかな足を覆う。薄手のブラウスに、ラベンダー色のカーディガン。『奴』の好みとは正反対だった。『奴』は闇に溶けるため、そして斬られても平気なように、特殊性の黒いレザーコートを身にまとっている。二本のベルトに四本のナイフをぶら下げて、革のパンツにごついブーツ、これが『奴』の普段着だ。
 何から何まで『奴』とは異なる。演技にしては、少々手が込みすぎてはいやしないか。外見だけ同じだというのだろうか。いや、まさか。
「亘理」
 突然香佑の声が割り込んできて、我に返る。
「浅香さんのこと、送ってってあげて。私教授に事情話してくる」
 いつの間にか、香佑があのかばんを抱えていた。開いていたファスナーはもう閉めてある。変わり果てた黒猫の姿は、もう見えない。
「場所は知ってるわよね?」
 それから不意に声をひそめ、周囲を見回して囁く。
「……後、つけられないようにしなさいよ。さっきから変な視線を感じる」
 言われてみれば、確かに絡みつくような視線が背を焼いていた。あからさまな敵意すら感じられる。妙な気持ち悪さと居心地の悪さを誘う、表現しがたい眼差しだった。
 彼女の住所は知らないわけではない。進級時に配られた緊急用の連絡網に書いてあった。だが、つけてくることを想定して彼女を送り届けるとなると、途端に話は難しくなる。
 どうしろと。目でそう問い掛けると、香佑は強張った表情をかすかに緩める。
「愛の力で頑張りなさい、青少年」
 ぽん、と肩がたたかれた。と思えば、ヒールの音も高らかに颯爽と歩いていってしまう。何だよ愛の力ってふざけんな無責任、と飛び出しかけた言葉をかろうじて飲み込み、腕の中にいる彼女の様子をもう一度うかがう。ぐったりと目を閉じ、完全に意識を失っているようだ。その傍ら、床についた自分の膝の右側に、香佑の車の鍵があった。
 使え、ということでいいのだろうか。やはり頼りになる身内がいると、いざというときに助かる。しみじみとそのありがたさを噛み締めて、俺は彼女を抱き上げた。すらりとした長身にはそぐわないほど、彼女は軽かった。

 閑静な住宅街にある高級マンション、そこが彼女の家だった。近くの有料駐車場を借り、彼女を背負って中に入る。鍵はかばんの一番外側に入っていた。ロックを解除し、エレベーターのボタンを押す。十階、一〇一〇号室、浅香梔子。
 部屋に一歩足を踏み入れて、まず最初に感じたのは、言いようもない寂しさだった。ひたひたと波のように、冷たい空気が足下を濡らしていく。
 リビングは殺風景で、メタルラックにはテレビと電波時計だけ、カーペットを敷いた上には黒い革張りのソファとガラスのテーブルだけが置いてある。その他は、不自然なまでに何も無い。レースカーテン越しに注ぐ陽の光も、それを反射するガラスの色も、なぜか白く温度がないように思えた。人が住んでいるとは到底思えない。
 死のにおい――と言っても、差し支えはないかもしれない。ここには、死が満ちている。
 リビング入り口の左側を見ると、短い廊下が続いていた。入ってすぐ右の扉は少し開いており、彼女の寝室なのだと分かる。真っ直ぐ奥にも部屋があるらしいが、とりあえず彼女を寝かせるほうが先だろう。
 寝室も、ひどく寂しかった。ベッドカバーや布団、カーテンにも確かに暖色が使われているのに、どこか空っぽで冷たい。こんなところに、たった一人で。なぜか涙腺が緩んでしまい、慌てて瞬きしてごまかした。
 ベッドにそっと彼女を下ろし、毛布を肩までかけてやる。起きたときに、喉が渇いているかもしれない。水を置いておいてあげるか。
 リビングのカウンターキッチンで水差しを探す。食器棚の一番左端に、ガラス製のものがあった。冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターを水差しに入れ、不意に手が止まった。
 グラスの数が、一つ多いのだ。
 こう言ってしまうと失礼かもしれないが、彼女は決して友人が多いほうではない。そして何よりも、家に人をあげることを拒み続けていた。そんな彼女が、余分に食器を買うことがあるのだろうか。
 思わず、廊下の突き当たりへと目を向ける。あの部屋は、誰のための部屋なのだ。
 急にせわしなくなった心臓を落ち着かせるため、彼女のところへ水差しを置きに行く。そのときにグラスを一度倒してしまったが、彼女は全く目を覚まさなかった。
 改めて、あの部屋に向かう。息を殺し気配を殺し、足音を忍ばせてそこを目指す。心臓の音がうるさい。指先が緊張で震えている。ある特定の場所へ行くだけに、こんなに緊張するなんて久しぶりだった。
 一枚隔てた向こう側は、何の音もしていない。目を閉じ、開き、呼吸をし、ノブに手をかけ、押し込んだ。

 部屋には、パソコンデスクとパソコンと、ベッドが一つあるだけだった。



 仕事は完膚なきまでに失敗だった。いや、自分で放棄したんだけど。一つ首を振ってから、俺は暗い夜道を歩いていく。朝見た光景が頭から離れない。
 『彼女』の家で見たものは、もう一人分の部屋だった。一人暮らしには何の意味もない、もう一つベッドの用意された場所だった。
 ――あいつに嫌がらせして、何のメリットがあるんだよ
 『彼女』と同じ顔をして、『奴』は嗤ってそういった。知っている口ぶりだった。やはり『奴』と『彼女』の間には、何かがある。同じ顔。同じ声。同じ体格。一つの家に、二人で住んでいる。
 とすると、
「双子か?」
 以前行った組織の実験体を思い出す。あの二人も、全く同じ顔立ちをしていた。
 だが、それが『奴』と『彼女』に当てはまるのかと言えばそうじゃない。決定的な証拠が何もないのだ。そんな情報は聞いたこともないし、噂になったこともない。恐らく本人に聞いても、本当のことは言わないだろう。気まぐれで子どものような性格の、面倒くさい奴なのだ。
 そもそも、相手は天下の何でも屋、簡単に情報が手に入るはずもない。せいぜい『奴』が通った道に、うまいラーメン屋が何軒あるか、麺の種類と値段と営業時間くらいしか分からないのである。何でも屋を称するだけあって、『奴』は情報屋のことも極めている。自衛の方法すら、より効率的な方法を新たに作り出してしまうのだ。
「……お手上げか?」
 自衛するなんて馬鹿げていると、嘲笑われているような気分になってくる。誰か他にもっと詳しい人間はいないのか。例えば――以前直接対決をやらかした奴とか。そういう人物なら、何らかの情報を持っているに違いない。でも、そんな人間が身近にいるなんて偶然あるのだろうか。
 髪に手を突っ込んで、それから唐突に思い出した。
 いた。それも、身内に二人も。
 時計を見る。深夜の一時半、まだ起きているはず。こんな時間に連絡を入れるのは非常識だが、あの人は非常識の側に住んでいる人だ、これくらい想定範囲内に違いない。数回のコール音の後、耳に優しい低音が届いた。
『はい』
「あ、義兄さんごめん。仕事中だった?」
『いや。ちょっと香佑の新作コーヒーの試飲をして、たった今サンズリバーから帰還したところだ』
 また何かやらかしたのかあの女は。くだらないことに情熱を燃やしている彼女も彼女だが、それを表情も変えずに飲み干して昏倒するこの人もこの人である。
 美作深悟(しんご)、二十六歳。一見するとただのイケメンだが、『深淵の眼(アイズオブアビス)』『彼岸の探求者』と呼ばれる一級の情報屋である。かつてはガチンコ系情報屋『真紅の魔物(スカーレットモンスター)』と張り合った伝説の人だ。その知識の深さと情報量は、現役と引退したものを含めても抜きん出ている。クールな物腰と情報の確かさで、主に女性からの絶大な信頼を寄せられている。
 そして、たまに俺の恋人に間違えられて「失礼な奴ね」とふてくされる、怒りのツボも趣味も全く理解不能な姉、香佑こと『真紅の魔物』に通算十回のプロポーズを経て結婚にこぎつけた義兄でもあった。新婚テンション二年目の、身内ながらよく分からない夫婦の片割れである。
 ……まあ、実力だけは確かだ。それだけは、自信を持って言える。
『それより、どうかしたのか。仕事は終わったのか』
「義兄さん。『双刃』について、ちょっと聞きたいことがある」
 一瞬の沈黙の後、義兄はさらに声のトーンを落として問い掛けてくる。
『……何があった?』
「いや、ちょっと気になることがあって。義兄さんなら知ってるかもしれないと思ってさ」
『好奇心は猫をも殺すと言うだろう。……香佑からの伝言だ。悪いことは言わないからやめておけ、だそうだ』
 やはり、あの危険さを身を持って体験しているせいなのだろう。一筋縄ではいかないらしい。こうなったら駄目だ、誰かの助けを借りることはできなくなった。
 ここは一つ、自力で何とかするしかない。この世界に入ってまだ五年しか経っていないが、俺だってプロなのだ。
「うん、そうか……分かったよ。ごめん、邪魔しちゃって」
『いや、納得をするな』
 切ろうとした直前、なぜか待ったがかけられた。
『お前はそれでもプロなのか。分からなければ自分で調べろ。一般人の常識がそうなのだから、プロがそうでないはずがない。いいか、情報屋というのはな』
 そしてなぜか冷静に怒られた。説教も始まった。全くその通りである。むしろ今からやろうとしていたことである。反論をしようかと何度か考えたが、珍しく饒舌になっている彼を止めるのはいささか気が引けた。
 だが、結果としてそれがよかったのかもしれない。長々と続いた説教の最後に、彼は重要なヒントを残してくれたのだ。
『……そうだな。まあお前もプロになって日も浅いから、お前にちょっとした助言をしてやろう。「双刃」はお前も知っての通り、全ての分野のプロフェッショナルだ。それはつまり……自分を守り、偽るための手段なら、いくらだって持っているということだな』

(初回:2008.10.23 更新:2009.1.10)


3-1 朝と昼
2-2 夕方と夜



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