泪濡るる花々の聲
-ナダヌルルハナバナノコエ-
3−1
昼と、朝と夕方


 次の日、私は重い足を引きずって学校に行った。昨日の電話でも、私は何も言えなかった。内容は確かいつもと同じ、お金の話だった気がする。
 他の人の視線が、いつにも増して痛い。教室の移動は、ほぼ走りっぱなしだった。授業中も見られている気がして、先生の話もろくに頭に入らない。
 ロッカーを開けるときが一番怖かった。また何かが入っている気がして、自然手が躊躇する。息を一つつく。二つつく。三つついたところでロッカーを開けた。
 中には何も入っていなかった。かすかに生臭いのは、まだ血の臭いが残っているからだろうか。教科書も全部整理されていて、一緒に入れておいた手紙は全部なくなっていた。
 私はそっと、かばんから小瓶と花を取り出す。ちょっと迷ってから、ミネラルウォーターを瓶に注いで花を供えた。あの小さな魂が、どうか天国で安らかに眠れますように。
 それから教科書を取り出そうと手を伸ばした、そのときだった。
「きゃあっ!」
 誰かの手が、私の肩を強くつかんだ。数人の笑い声が耳に入る。男の人、だろうか。以前つけられたときの恐怖が、足首から這い上がってくる。
「相楽、お前おどかしすぎじゃね?」
「悪ぃ悪ぃ。浅香さんがこんなに驚くなんて思ってなかったんだよぉ」
 後ろを振り返って、同学年の人だと分かった。分かったけれど、体が震えるのを止められない。心臓の音が、耳元でずっと鳴っている。相手に聞こえてしまうのではないかと思うほどの早さで、どくどくと不規則に脈打っていた。
 落ち着こうと深呼吸を繰り返しても、一向に元に戻らない。関節がきしきしと嫌な音を立てて軋んだ。
「……ご、めんな、さい」
 何とか声を絞って謝る。彼らは一度顔を見合わせ、微笑んだ。薄く笑うその顔に、なぜか温度を感じることができなかった。視点が定まらない。血の気が引いたせいなのか、頭が鈍い痛みを訴えている。
 私はロッカーを後ろ手で閉めて、そっと後ずさった。これ以上、顔を見ていることができなかった。
「いいよ。浅香さんって、反応が可愛いね」
 肩を最初にたたいた人が言う。相楽君、だったか。同学年で聞いたことがある名前なのに、知っている人なのに、混乱していて思い出すことができない。
 何よりも――この人が、この人たちが怖い。緊張をしすぎているせいで、既に体のあちこちが悲鳴をあげていた。
「……ごめんなさい、私、そろそろ授業だから」
「待ってよ」
 腕をつかまれた。反射的に腕を引く。離れない。離してもらえない。ひどい目眩がした。目の前の光景が、少しずつ歪んでいく。怖い。腕を引いても離してくれない。
 怖い。この人は私を、どうしたいのだろう。分からない。私をどうするのだろう。 
「い……や」
 離してくれない。離してくれない。どうして。なぜ。離してほしいのに、離れてくれない。どうして。どうして私なの。どうして。
「待ってってば、ね、浅香さん」
 手が離れない。つかむ指に力が込められる。逃がさないとでも言うように。逃げること自体無駄だと嘲笑っているように。
「いや――」
 無理やり腕をつかまれて、それから、それから先が分からない。けれど確かに、体は覚えている。分からない、分からないのに、私はこの先を知っている。
「お願い……っ」
「浅香さん、いいじゃん。ちょっとぐらいさぁ。授業サボって、話でも」
 それはほぼ直感だった。確証さえない、突然探り当てた答えだった。
 『あそこ』のように狭くて寒い部屋に連れて行かれて、血がいっぱい出るくらいたくさんの人に殴られたり蹴られたり窓の外へ突き落とされたり、する、のだ――
 目の前が真っ白に染まったとき、私は悲鳴をあげて彼を突き飛ばしていた。
「やめて、……やめて!! お願い、触らないで、くださいっ!!」
 腕をつかんでいた手が離れた。後ろにいたお友だちも巻き込んで、彼は仰向けに倒れた。謝って駆け出した。授業の予鈴が、鳴った。

「浅香さん」
 ようやく落ち着いたのに、誰も私をそっとしておいてくれない。突然かけられた声に反応して、勝手に肩が跳ねた。
「……な、に……奥沢君」
 つかえる言葉を何とか吐き出して、私は彼を見上げる。冷たいガラス越しの視線、まるで全てを見透かしそうな、強い光がある。
 奥沢君は淡々と続ける。
「最近顔色が悪いみたいだね。昨日の出来事が相当堪えたと見えるけど」
「……っ……」
 また鮮烈に思い出される。あの小さな黒猫の目。虚ろに私を映していた金色。私の全身も硬く、冷たくなっていく。
「あれの犯人は、残念だがまだ捕まってないそうだ」
 お願い、早く一人にさせて。私は机の下で、きつく手の甲に爪を立てる。
「ぶしつけで悪いんだが……君、誰かの恨みでも買ってたんじゃないのか」
 そんなの、いつものことじゃない。心の中で返事を返す。
 彼は知らない。一体どれだけの人が、私に迷惑をかけられているのかを。彼は、知らないのだ。
「……そう、かもね……」
 奥沢君の目が細まる。自嘲に気づいたのかもしれない。別に隠すつもりも無い。私は真実を言っただけ。本当のことを言っただけだから。
「素直じゃないね、奥沢君。浅香さんにノート貸してあげるんだって張り切ってたじゃない」
 と、美作さんの声が近づいてくる。体に余計な力が加わり、机の影から覗く指は真っ白になっていた。
「……君には関係ない」
「あらあら、冷たいのねー。浅香さん、気にしないでいいわよ。彼なりのフォローの仕方だから」
「フン。浅香さん、こっちに来てくれないか」
 奥沢君の手が、私に触れる。目蓋の奥で、誰かの影が重なった。得体の知れない恐怖が襲ってくる。体は勝手に震え出し、急激に体温が下がっていくのが分かった。
 お願いだから、私のことはそっとしておいて。どうして誰も放っておいてくれないの。なぜそのまま素通りしていってくれないの。私だってみんなと変わらない人間のはずなのに――みんなと違うから? みんなと違う体を持っているから? 身体と心が一致してないから? たったそれだけのことなのに、どうして。
 私は反射で、奥沢君の手を払ってしまった。先ほどと同じように、払ってしまった。
「浅香さん? 顔色悪いぞ。真っ蒼だ、大丈夫か?」
 もうやめてほしい。もう嫌、どうしてみんなと違うのに構いたがるの。どうして放っておいてくれないの。
「お願い、私はもう大丈夫だから……大丈夫だから、お願い……っ……」
 声が震えてかすれて、うまく音にならない。奥沢君が不機嫌そうに眉を寄せて、わざとらしくため息をつく。
 ありとあらゆる方向から投げられる、好奇心むき出しの空気。浅香が一体何をしたのか。今度は何をしでかしたのか。話の種を少しでも逃すまいとするように、彼らは私のほうへ身を乗り出している。
 もう耐えられない、これ以上ここにいたくない!
 教科書もノートも置き去りのまま、私は駆け出した。風の声に混じって、奥沢君が私を呼んでいる。引きとめようと、腕を伸ばしている。
 嫌だ、嫌だ、どうして放っておいてくれないの! もうやめて、これ以上私を追い詰めないでよ――!
 声にならない声をあげながら、奥沢君を押しのけ、美作さんの脇をすり抜ける。涙で歪む視界を拭いながら、無我夢中で駆けた。
 一人になりたかった。そっとしておいてもらいたかった。もう誰にも触られたくなかったし、もう誰にも会いたくなかった。

 マロニエの木の下で、私はうずくまった。震えが止まらない。自分の肩を抱きしめて、ただ痙攣が治まるのを待っていた。
 人に触られることが怖くなったのは、人と違うのだと悟り始めたのは、果たしていつ頃からだっただろう。ずっと昔、記憶の始まりを思い出す。
 ぼんやりと不鮮明な映像と感触の中で、私は突き飛ばされて頬を殴られていた。思い出せないくらいに酷いことも、多分されたのだろう。だから発作のように、唐突に思い出すのかもしれない。
 目をきつく閉じて、浮かんだものを消そうとする。震えはまだ、止まらない。誰も来ないことを祈りながら、私は木の幹に頭を預ける。苦しくて何度も咳き込んだ。
 胸元が熱い。あの印が痛い。痛みと熱のせいで、うまく息ができない。胸も首も締め付けられているようだ。服をきつく掴み、必死に呼吸を整える。
 風が頬を撫でていく。いつの間にか流れた汗が冷やされていく。霞む目で空を眺めた。透明な蒼のグラデーション、地平線まで徐々に折り重ねられていく色は、上に乗せられていくにつれて濃く深くなっていく。
 こんなに空が蒼く広いものだったなんて、知ったのは本当につい最近のことだった。それまでは、暗い部屋に閉じ込められたままで、小さな窓越しにしか見たことが無かったから。
 白い天井。格子のはめられた窓から見た空は、いつでも同じ色だった。途切れ途切れに思い出す空の色は、誰かの影と罵る声と一緒に現れる――思い出しかけたところで、無理やり思考を中断する。このことを考えると、呼吸困難になるほどに痛むのだ。痺れて感覚が無くなるくらいに力を込め、痛みをやり過ごす。何も考えず空っぽのまま、私は風を受けていた。
 やがて熱も痛みも少しずつ引き、鈍く疼くだけになった。手を離す。硬直した指を外すのに苦労したが、何とか全部を剥がした。先ほどのこともあってだろう、体中が鉛のように重い。
 私は幹に額をついたまま目を閉じた。皮膚を通じて感じる木の温もりが、泣きたいほどに優しい。静かに忍び寄ってくる眠気に意識が引き込まれ、私はその波に身を任せた。

 目蓋の奥でちかりと光ったものは、一体なんだったのだろう。

(初回:2006.7.1 最終訂正:2008.10.23 更新:2009.1.10)

3-2 夕方
2-3 朝から夜まで


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