第三章
其ノ2
『彼知者』
(かをしるもの)
裏の社会には、会えば生きて帰れないという危険人物が三人いる。 『死神の切り札/最悪の終焉(Worst End)』。 『首切り双刃/狂える快楽主義者(Crazy Hedonist)』。 『血まみれエース/殺し屋の糸巻き(Murder's Reel)』。 今隣にいる人間が、かつて危険だといわれた男。光矢は思わず、武を見た。眉根を寄せ、『双刃』の言葉を聞いている。 『何であンな奴が、こンなとこにいるンだよ……!?』 豊高と会ったとき、武は確かにこう言った。彼はあのとき、気づいたのかもしれない。 「何だよ。てめぇも神サマ同士の殺し合いに来んのか?」 豊高はもう、笑ってはいなかった。驚くほどの無表情さで、相手に答える。 「ついさっきまで興味だけだったんだが……てめぇの顔見て気が変わったぜ、『クレイジーヘドニスト』」 「へっ」 『双刃』は唇の端をつりあげた。 「光栄だぜ、『マーダーズ・リール』。ようやくてめぇと、心置きなく殺し合いが出来るってモンだ」 「Hey,あんたら話長すぎだぜ」 『双刃』の声を、奥の青年が遮った。飽きたとでも言いたげに、あくびをしながら続ける。 「そーろそろ始めましょうや、『双刃』さん。こんなんじゃヘリオス様にどやされちまいますよ。俺はそんなのNo Thank youなんですがね」 光矢の脳裏に、先日の光景が蘇る。 『ヘリオス』。あの黒衣の死神が、繰り返し口にした人物の名。裏切れば、すなわち死を意味する人物の名前。 胃が収縮する。唐突に吐き気がこみあげて、光矢はとっさに口元を押さえた。 「ディオニソスの相手は任せますね。俺はアレスと遊ばせてもらいます」 ちゃり、と小さな音がした。翼の形の鍔(つば)がついた、洋風の剣のキーホルダーだ。親指程度の長さのそれは、薄く差してくる日光を照り返して鈍い銀に輝いている。 「遊ぶだと」 対するこちら側では、重いものが床にぶつかる鈍い振動がした。 「小僧、誰に対して口を利いている」 「これはこれは偉大なる戦の神、アレス様でいらっしゃいますねぇ」 古い戯曲のような口ぶりは、どこか馬鹿にしている雰囲気があった。大げさな仕草で、青年は髪をかきあげる。 「だがしかし! 俺はおそらくあんたより強いぜ? Because――」 金属の欠片を、弾く。かすかな軌跡を描きながら、剣はよどむ闇を裂いた。比喩、ではない。文字通り、剣の切っ先が弧を描きながら、床に突き立った。 「――私のほうが君よりも強く、神の力を持っているからさ」 真っ直ぐに伸びた柄をつかみ、彼は笑みさえ浮かべてみせた。 「ヘルメス。神々の伝令神、死出の旅路の案内人。戦いは決して得手ではないが、現世における神の力は私のほうが上だよ」 直後、剣と槍が悲鳴をあげて交錯した。火花が幾重にも散り、備品のいくつかは形も残らぬほどに粉砕される。 ヘルメスが一歩、退いた。退いて、消えた。光矢は慌てて周囲を見回すも、彼の姿を確認できない。アレスもまたいぶかしげに視線を巡らせ、突如槍を斜に構えた。 「おい坊主! 来るなよ、そこから一歩も動くな!」 叫びと同時に、アレスの腕から血が流れ出る。風が渦を巻き、埃を吹き上げた。続いてもう一筋。風が起こる。傷が、増える。 アレスは動かない。攻めの構えではないことくらい、光矢にも分かる。仕掛けないのは、反撃の隙を窺っているからか。 傷はさらに深く、多くなっていく。アレスは、動かない。膝を深く折り曲げ、腰を落とし、槍を何度も持ち直して耐えている。五分と経っていないのに、彼の全身は血まみれになっていた。 おかしい。これだけ満身創痍になっていながら、アレスが一歩も動かないのだ。ただひたすらに防戦に回っている。 (違う) 光矢は、理解した。 (動かないんじゃない。相手が速すぎて……反撃できないんだ!) 剣戟が、徐々に強く強くなっていく。その度に、アレスの体が反動を受けきれずに後退していく。 一際重い音がした。アレスがよろめき、バランスが崩れた。懐に銀がひらめく。粘つく光沢の紅が宙に散り、また銀を彩った。 「堕ちたものだね、戦の神」 アレスの左肩から右の腹まで、一直線に筋が走る。 「実に残念だ。もう少し長く遊べるかと思ったのだが」 ヘルメスが、床に降り立った。手にした剣を右手に、空いた左手は自分の髪を梳いている。 「哀れ、だね」 言葉が投げられると同時に、戦の神は倒れ伏した。 光矢は叫ぶことすらできずに、ただ目の前にある光景を眺めているしかできなかった。 「さて。どうやらセレネは動けないらしいから、エンデュミオンを手に入れるのはたやすいか」 足が動かない。それどころか、立っていることすらやっとだ。膝が震えて、いつ座り込むかも分からない。 「女性を殺すのはさすがに、私と『彼』のモラルに反するからね。人質の彼女も、共に連れて行くことにしようか」 一歩ずつ、ヘルメスが近づいてくる。ブーツのかかとがコンクリートに当たり、嫌な残響を帯びて耳を突く。 冷や汗が伝い顎から落ちる。ヘルメスの奥で、那月が小さく身じろぎをした。アレスは呻き声すらあげず、横たわったままだった。 ガラスの割れた窓からは、斜陽の光が差している。時折影が通り過ぎるのは、巣へと帰るカラスのものか。右手にある窓の外すら、見ることができない。 「さぁて。これで晴れて、任務は終わりと」 腕が伸ばされる。はめられていた腕輪が一つ、甲高い声をあげて床に落ちた。 「……うん?」 「……え……」 足下に転がる金属の輪は、綺麗に二分されている。ヘルメスの表情が、変わった。 「――ッ、しまったッ!!」 「Freeze,Boy! 動くなよ、命が惜しけりゃな」 豊高だ。夕暮れの気配が濃くなる中、窓枠に足を組んで腰掛けている。 「ここは完全に俺のテリトリーの内にある。密室の蜘蛛は、手中の餌を逃さねえ」 手の先指の先に絡み伸びるそれは、空中に複雑な模様を描いていた。さながら蜘蛛の巣のように、部屋のあちこちに張り巡らされている。いつの間に、これだけの量の糸を張ることができたのか。 光矢の袖の一部が、音も無く裂けた。 「おっと、言い忘れてた。俺の糸は特別製なんだぜ。鋼鉄ワイヤにストリングスその他諸々。見えるものだけがすべてじゃねえさ。下手に動けば」 笑いながら、豊高は親指で首をかき切る真似をする。楽しげな様子に、光矢の背を冷たいものが伝っていった。 「もっとも、上手く避けられたとしたところで」 唐突に空気が動いた。光矢の体に、何かが触れている。 豊高の両腕が、ついと上空に伸ばされた。先ほどよりも明確に、空気がざわめく。 「俺のテリトリーからは、逃れられない」 開いた指を折りたたみ、そして勢いをつけて振り下ろした。 皮製のものが強くたたかれる、特有の弾けた音がした。続いて豊高の前に、黒く紅い人物が現れる。腕を後ろ手に拘束され、膝をつき、額を床に擦り付けている。 「さすがは『クレイジーヘドニスト』だ。簡単には切れないように、細工してあるみたいだな。あーでもアレか。やっぱ喉はむき出しだなー」 指がかすかに動く。『双刃』の顎が反り、持ち上げる細い糸がきらめいた。 「相変わらずえげつねぇな、ホントによぉ」 『双刃』の横顔が、嗤う。 「やっぱりてめぇはこっちが似合いだ。神サマの世の中でも、生ぬるい平和に浸かった世の中でもねぇ。血生臭ぇ腐臭のする、殺し合いの世界がよぉ」 豊高の笑みが、かすかに歪んだ。 「遺言は? ねーの?」 まさか――光矢の脳にこびりついた恐怖が、足下から這い上がってくる。体の震えが止まらない。極度に緊張した筋肉が、既に限界を訴えかけている。手の先が冷たく痺れて、感覚が無かった。 武は動かない。ヘルメスも動かない。那月も、動かない。 「元々使い捨ての玩具なんだ、遺言なんて大層なモンがあるかよ」 殺すの、だろうか。今、ここで、自分の目の前で。殺すのだろうか。あの黒い死神のように、あの白い天才のように。 声が、出ない。喉が渇いている。全身の水分が、汗で出て行ってしまったのか。瞬きをすることすらできない。 「だよなぁ」 会話は、近い。近いのに、遠い。笑顔のうちに交わされるやり取りは、明らかに何かがおかしかった。 「じゃぁまあ、死んでちょうだいな」 「ヘッ。絶頂見せてくれよ?」 この人たちは、やはり自分とは違うのだ。頭のどこかで、思った。 豊高の腕が上がる。『双刃』が嗤う。声が出ない。足が動かない。手の先が痺れている。頭の中が麻痺している。ただ見ていることしかできない。凝視することしかできない。 腕が、振り下ろされる―― 「嫌あぁぁぁっ!!」 突如あがる悲鳴が、流れていた空気を砕いた。すべての視線が、悲鳴の主に注がれる。 「やめて……やめてください……」 那月が泣いていた。顔を手で覆い、しゃくりをあげて泣いている。 「……お願いします……お父さんとお母さんみたいに、しないで……」 豊高の手が、わずかな迷いを見せた。数秒の間も置かず、張り詰めた糸が切れる。『双刃』の姿が消え、ヘルメスの周囲でも次々と糸が断ち切られた。 「フン。興ざめだぜ『マーダーズ・リール』。結局俺を殺せなかったな」 一つ奥の窓に足をかけ、腕にヘルメスを担ぎ、『双刃』は言った。 「今日のところは、互いに分が悪いってことにしておいてやるよ」 「おいおーい。逃げる気かよ、卑怯くせぇなぁ。続きやろうぜぇ」 返事は、返ってこなかった。 手足の緊張が解ける。座り込みそうになったが、光矢はかろうじて踏みとどまり、ゆっくりと那月のところへ歩を進めた。彼女を放ってはおけない。 豊高がひょいと肩をすくめ、それからポケットに差してあった糸巻きを引き抜いた。手際よく糸を回収しながら、光矢にむけて話しかけてくる。 「いやー悪い悪い。ついつい熱くなっちまったよ。ちょっと調子乗りすぎたかな」 光矢は黙ったまま、豊高の隣をすり抜けた。すれ違い様にようやく、一言だけしぼり出す。 「……先輩を頼みます」 那月に近寄る。華奢な肩が、ますます細く思えた。一瞬躊躇って、それから触れる。 「那月さん」 弱くすがりついてくる彼女の背を、なでる。 「……那月さん」 光矢はたった今、初めて何も出来ない自分が悔しいと思った。何もできず、ただ誰かに守られているだけの自分が、悔しいと思った。 巻き込まれる人たちを守ることが出来ない自分が、情けないと思った。 (2007.3.21) |