第三章
其ノ5
『真見者』
(まことみるもの)
病院の入り口は大騒ぎになっていた。悪目立ちする赤毛と、大勢の看護師たちが彼を取り押さえている。点滴を受けたまま外に出たのか、傍には管の伸びるスタンドがあった。 「おう、光矢ァ!!」 思わず他人のふりをしようとした光矢だったが、あちらが発見するほうが早かったようだ。逃げようとしても、この距離では不可能である。相手は看護師を押しのけてこちらへ向かいつつある。 「……何でおとなしくできないんだろう……」 光矢の嘆きをよそに、荒々しい足音が近づいてくる。走っているらしい。彼の後ろからは、看護師たちの制止の声があがっている。 「どうしたんですか、先輩……」 「お前にいい知らせ持ってきたンだよ」 武はそう言うと、病室の一つを指で示して笑う。看護師のことなど一切気にしていない辺り、彼らしいといえば彼らしい。看護師たちの迷惑も考えてほしいものであるが、今更何を言っても聞いてはくれないだろう。黙って首肯し、先を促す。 「セレネが目ぇ覚ましたってよ!」 心の奥底が、安堵に緩むのが分かった。彼女が無事だった、彼女が助かった。その事実が素直に嬉しい。セレネに会える。はるかな時を越えて、この極東の大地で再びめぐり逢える。もう二度と彼女を失いたくない――これはエンデュミオンの感情なのだろうか。 「よかった……」 「感謝しろよ。俺が鏡華に頼ンで会えるようにしてもらったぜ。思う存分話してこいよ」 首根っこをつかまれながら、武は親指を立ててみせる。連行されていく彼の姿を見送りながら、光矢もまた親指を立ててみせた。 アシュレイは受付で手続をしてから、姉の病室に行くという。豊高も一旦マンションに帰る、とのことであった。彼らと分かれ、光矢はセレネの病室へと向かう。 緊張に震える手で扉をノックする。少しの間を置いてから、セレネのかすかな声が耳を打った。 「はい、どうぞ」 ドアノブを回す時間ももどかしい。光矢は勢いよく病室に飛び込んだ。 セレネは身体を起こし、光矢を待っていた。仮面はつけておらず、蒼い瞳を優しく細めている。顔色はあまりよくなかったが、運ばれていくときよりは大分血の気が戻っていた。 「セレネ!」 「まあ、光矢……来てくれたのね、ありがとう」 セレネの手が、光矢の手に重なる。ひやりとした感触は、初めて会ったときと変わらなかった。この手でずっと、自分の頬を撫でていたのだ。何度も繰り返し、エンデュミオン、と名前を呼びながら。脳裏によぎる鮮やかな記憶に、光矢はこみ上げてくる愛しさを噛み締める。 「俺、本当はずっと、奥のほうから声が聞こえてたんだ」 冷えた指を握り、光矢は細いその先を見つめて呟いた。 「セレネが……エンデュミオンのことを探してる夢、見たよ。エンデュミオンがセレネのこと探してる夢も見た。死ぬ直前の夢も」 繰り返し重ねられてきた、前の世の記憶。現実とはかけ離れたそれが、自分に絡み付いているなんて信じたくなかった。 「怖かったんだ。俺が俺じゃないっていうなら、これからの俺は何なんだって。そう思うと……嫌だったんだ。今までの生活が全部、なくなっちゃうんじゃないかって思った」 セレネは何も言わないまま、光矢の言葉に耳を傾けている。包み込んだ手のひらが、光矢の手を弱く握り返した。 「だから……セレネの言うことも全部知らないふりして、聞こえないふりして逃げてた。だけど」 顔をあげ、光矢はセレネの瞳を真っ直ぐに見つめる。蒼く澄んだ湖面のような、静謐な色だ。 「逃げてばっかりじゃ、何も解決しないんだって分かった。だったら今を受け止めて、どうすればいいのか考えたほうがいいって気づいた。俺ばかりじゃない、セレネもすごくつらかったんだって……ようやく、分かったんだ」 一つ、息をつく。思いのほか緊張していたのか、ひどく喉が渇いていた。 「セレネ。俺……」 情けなくかすれる声を何とかしぼり出した、その直後。 唇が強張り、意識していた単語が飲み込まれた。 「『君を探していた。ようやく会えた、愛しい人』」 セレネの瞳が驚きに見開かれる。光矢もまた、驚愕に一歩後じさる。今のは何だ。自分の言葉ではない。かと言って、無意識に出たものではない。誰かに乗っ取られたにしても、意識ははっきりしている。 それでも身体は自由にならない。口だけが別人のように動いている。 「『事故により肉体から魂が離れ、君と同じ力を持つ少年の身に吸い寄せられてから……受け入れてくれるまで、どれほどの時間を待っただろうか』」 同じ力を持つ少年、とは自分のことだろう。だが、生まれかわりというには不可解な言葉が多すぎる。元の肉体とはどういう意味なのか。吸い寄せられるとは何を意味するのだろう。 疑問と共に、光矢の脳裏を映像が過ぎる。どこかの街中を歩いている最中、突然暴走した車がこちらに向かってくる。運転手が笑んでいる。隣に乗っているのは帽子を目深に被った少年だ。微笑みすら浮かべて、こちらを真っ直ぐに指差している。一瞬だけ覗いた深い瞳の色が視界に焼きつき、紅に染まって暗転する。 自分のものではない、おそらくはエンデュミオンの……彼の「元の身体」の記憶だ。あれはただの事故ではない。故意による事故だ。助手席に座っていた少年は、こちらを示して笑っていた。ならば、主犯はあの少年か。一体どうして彼を狙ったのだろう。 「『私の魂は半端に放り出され、残された肉体と欠けた魂は、今も病院の一室で眠り続けている。元の身体でないことを許してほしい。私の愛おしい女神よ』」 滾々と湧き出ていた声が、ふつりと途切れた。緊張していた手足に感覚が戻り、身体が自由になる。光矢は一度チェストに置かれた水を飲んでから、映像のことをセレネに伝えた。 彼女はしばらくの間黙っていたが、ふと光矢に問いを振る。 「ねぇ、光矢。私たちのように魂を二つ持っている者が、どうやって身体を共有しているのかは知っている?」 「いや……考えたこと、無かった」 「アレスの例で考えてみて。彼はチョーカーを使って魂を交換し、神話に語られる力を発揮している。彼だけではないわ。他の神々も、何らかの媒体を用いて魂の交換をし、その力を使用するの。本来ならば、一つの身体に魂は一つきり。だけど、転生した魂を持つ人は違うのね。転生者の欠片を持つ人の魂と、転生した魂が共鳴して混じっちゃうの」 そう言われてみれば、思い当たる節がある。今まで出会った神々は皆、何らかの道具を使って初めて表に現れた。つまり魂の交換とは、媒体とやらを用いて魂の主導権をひっくり返す、ということなのだろう。 「転生した魂は、場合によっては自我を持っていることがあるわ。だから、完全に交じり合うことは無い……根の部分で一つではあるけれど、実質上魂を二つ持っていることになるのね」 そこまでは分かった。まだ漠然としか理解できないが、それはつまり二重人格のようなものなのだろうか。そう尋ねると、セレネは困ったように笑った。 「ちょっと違うかもしれないわね。私もそのことに関しては詳しく知らないけれど……この場合魂を交換しても、混じり合った部分が記憶を伝達して、リアルタイムに伝えてくれるのね。感覚も共有しているから、表側に出ている魂の感じたことや見たもの、聞いたことも、逆に裏側に沈んでいる魂の声や考えも、全部お互いに分かるのよ」 なるほど。だからアレスしか知らない情報も、武が把握しているのか。納得がいった。 セレネから、再度問いが投げられる。 「それじゃあ……そうやってくっついた魂が、何かの弾みで離れ離れになってしまったら、どうなると思う?」 予想できなかった。そもそも魂が、身体を離れてどこかに行くことなんてあるのだろうか。自分では経験したことのないことだ、想像することすらできない。 返答に困っていると、セレネが答えを出してくれた。 「実質上二つの魂とは言ったけれど……混ざり合った部分があって初めて、一つの身体を動かしているの。じゃあ、もし今まで一つだったものが二つに千切れてしまったら……身体は普段どおりに動くことはできるかしら」 「あ」 二つに割れてしまったマグカップは、コーヒーを注いで飲むことができない。取っ手の部分が外れてしまった鍋は、熱されれば火傷する危険がある。そういうことか。 「魂の一部が欠けてしまった状態で動くことは危険だって、身体が判断するみたいなの。だから、……身体は眠りについて……自分を、守ろうと……」 セレネの声が、中途半端に途切れた。白い敷布を細い指が握り締める。伏せられた蒼い眼差しから次々と涙が溢れ、彼女の肌に透明な筋が刻まれた。 「エンデュミオン……私が探せなかったばかりに……気づかなかったばかりに……あなたを、光矢を、みんなを苦しめてしまった……巻き込んでしまった……!」 震える彼女の肩に手を置くが、肝心の言葉が出てこない。貴女のせいじゃない。俺が逃げたからいけないんだ。貴女は悪くない。そんな台詞が脳裏をよぎっては、音にする前に砕けて消えていく。 今まで一人で頑張ってきたセレネに、今まで何もしなかった自分が、今更何を言えるのだろう。 (あんた、セレネの恋人なんだろ? 俺の中で見てたんだろ? ……俺じゃ、彼女に何も言ってあげられない。もう一回身体貸してやるから、何か言ってやれよ) 声に出さず念じてみても、返答は全く返らなかった。セレネは静かに泣いている。嗚咽をかみ殺し、目元を覆い、泣き顔を光矢に見せまいとうつむいている。 逃げ回っていたから、その報いを受けたのかもしれない。だからこんなときに、自分は何もできないのだ。自分を守り、傷ついてきたこの人を、慰めることすらできないなんて。 (いや、違う) 後ろ向きになりかけた思考を一度止め、奥歯をきつく食いしばる。 諦めないで、受け入れると決めたのだ。何もできないと決め付けても、そこから先には進まない。言葉がかけられないならば、せめて行動で示せばいい。 光矢は小さく首を振り、両手でセレネの肩を支えた。手のひらを通して、じかに震えが伝わってくる。また痩せたな、と頭の片隅で思う。 どれだけひどい言葉を浴びせても、涙を流す姿すら見せなかった彼女。いつも静かに微笑んでいた彼女。『彼』を守るために、『彼』を探すために、たった一人で戦っていた彼女。この華奢な身体に重いものを背負って、どれだけの時間を過ごしたのだろう。 自分のことばかり考えていたのは、セレネではない。生活が変わることを怖がり、現実から目を背け、耳を塞いで逃げ回っていた光矢自身だ。 もう逃げない。誰かに責任を押し付けて、逃げたりしない。他人のせいにして八つ当たりもしない。この問題が終わるまで、絶対に逃げたりしない。そんな思いを込めて、もう一度セレネの肩を支えなおす。 扉が軋む音がしたのは、その直後のことだった。 「久しぶり、サラ」 声変わりを終えていない少年のソプラノが、喜色をにじませて部屋に響いた。セレネが弾かれたように面を上げ、涙に濡れた双眸を見開く。 白金の髪に蒼い瞳、セレネによく似た顔がそこにある。 「アシュレイ……!? あなた、どうして……!?」 「サラに会いに来たんだよ。ずっと一人だったから、寂しかったんだ」 無邪気な笑顔で少年は言う。先刻とは異なる、流暢な日本語だった。 「嘘、どうして……どうして、ここに……」 そして同時に紡がれた言葉に、光矢は愕然として立ち尽くす。 「ずっと僕の邪魔をしてたのは、サラだったんだね」 「あなたはもう――死んでしまっているのに……!」 大地にたたきつける雨の音が、静寂を飲み込んで木霊していた。 (2008.6.9) |