第四章
其ノ1
『復讐者』
(ふくしゅうしゃ)


 普段ならば耳障りな扉の音も、激しい雨と雷にかき消されて聞こえない。傘を濡らす雫を一度払い、立てかけてから中に入る。
 紅の絨毯を引いた廊下を進むと、ほのかな光に照らされた銀が見えた。何かを期待したように視線を投げ、いかにもつまらなさそうな顔をする。
「あーアシュレイかー。何だ、驚かすなよ」
 気障な仕草で髪をかきあげ、ヘルメスは肩をすくめて首を振る。
「そーいやさ、美奈世ちゃんどこ行ったか知らない? ちょっとsweetな語りしたかったんだけどさー」
 取り合わないまま、わきを通り過ぎる。別に彼も反応を期待していたわけではなかったらしく、頭の後ろで指を組んで自室へ歩いていった。
 応接間に差し掛かる頃、ぱたぱたと軽い足音がした。
「あ、お父様ぁ」
 これから自室に向かうところだったのだろう。朝焼け色の寝巻きに着替えたキルケが嬉しそうに寄ってくる。
「今日はどこ行ってたんですかぁ? 寂しかったですー」
「後で教えてあげるから、早く寝な。明日気が向いたら『彼』も構ってくれると思うよ」
 まとわりついてくる少女の頭を軽く撫で、優しく笑んでみせる。
「はーい」
 少女は満足げにうなずいて、再び小走りで廊下の奥へ消えた。
 廊下の突き当たりに出ると、右側の風呂方面から美奈世がやってくる。風呂上りなのか、肩にタオルを引っ掛けて髪を拭いていた。
「あら、アシュレイ。いつ帰ったの」
「ついさっき」
「そう。中身は違うっていっても、一応子どもなんだから、次はもう少し早く帰ってらっしゃいよ。キルケなんか心配しすぎて、おやつにも手をつけなかったんだから」
 言いたいことだけ言い置いて、美奈世はそのまま広間のほうへと歩いていく。その後姿を見送ってから、角を左に曲がる。屋敷の最深部、自室の扉の前に、澱む闇と紅が見えた。腕を組み、壁にもたれて嗤っている。
「お早いお帰りで。あんたのお気に入りがお待ちだよ」
 無言のまま、相手を眺める。相手もこちらを見下ろし、顎を引いて目を細める。
「くくく、そう怖い顔すんなよ。安心しな、俺ぁ一度も中に入ってねぇぜ。よっぽどのことがねぇ限り、契約内容を破棄するこたぁねぇさ」
 そして後ろ手に、扉を押し開ける。灯かりも灯らぬ部屋の中、確かに彼の気配がある。
 隙間に身を滑り込ませ、かばんを放り出して立ち止まる。大きな窓の前、彼はひざまずいて待っていた。
「よくぞご無事で」
「うん」
 手を伸ばし、落ちていた仮面を拾い上げる。ピエロの泣き顔を模した緋の仮面は、奇妙な温もりを指先に伝えた。いつもの手順で仮面をつけ、今一度黒衣の死神を眺めた。
「ハデスよ」
「は」
 一瞬の激しい光が辺りを焼く。
「役者はそろった。復讐を遂げ、新たなる『神の国』を創造する。私に過去など無いように、お前にも過去など存在しない――記憶も感情も時間でさえも、全て私にのみ捧げよ。お前は私と共に、血塗られた復讐の道を歩むのだ」
 底知れぬ闇を包括する双眸が、ほんのわずかにすがめられた。
「私のすべては、ヘリオス様のために」
 雷鳴が、静寂を切り裂いて高く轟いた。



 重い空気が、一同の周囲に降り積もる。西嶺家の豪勢な広間、昨晩のやり取りを全て話し終えた光矢もまた、それ以上何も言えずにいた。
 武が一つ、息を吐く。紫煙が空気に溶け、無色透明になって消えていく。例の騒動が原因で、既に退院の許可をもらったらしい。追い出されたとも言えるが、今この場でそれを口にするほど光矢も馬鹿ではない。
「……何てこった」
 低く呻く彼の声が、静寂に埋もれていく。
「それじゃあ……セレネは戦えねぇじゃねぇか」
 無理もない。セレネとヘリオスは神話上でも実の兄弟だが、まさか現世でも血を分けた実の兄弟だったなんて。光矢は唇を噛み締めて、病室での会話を思い返す。

+++

「ずっと僕の邪魔をしてたのは、サラだったんだね」
「あなたはもう――死んでしまっているのに……!」
 混乱する光矢に向けて、アシュレイは笑みを投げかけた。
「ごめんね、光矢お兄さん。改めて自己紹介させてもらうよ。もちろん、日本語でね」
 にこり、と無邪気に笑い、少年は丁寧に礼をする。ただそれだけの仕草も上品に見えるのは、彼が上流家庭の出であることを暗示しているからなのだろうか。
「僕の名前はアシュレイ。現世で授かった名前はアシュレイ=ホワイト。サラ=ホワイトの弟。そして、太陽神ヘリオスの生まれかわり」
 自分のことを狙い、キルケやアフロディテ、ヘルメスをけしかけた張本人。
 ハデスへ命令を下し、アポロンを殺した者。
 壊れた機械のように繰り返しなぞられた、あの名前の主。
 姉の容態が心配だと言っていたこの少年が――太陽神ヘリオス。
 何かの冗談だと思いたかった。何かの冗談だと、言ってほしかった。しかしいくら望んでも、彼の口から「冗談だよ」という言葉は発されない。代わりとばかりに降りしきる雨の音だけが、白い病室に染み入ってくる。
「嘘だと、思っていたの」
 その合間を縫って、呻くようにセレネは言う。唇を噛み締め、一つ頭を振ると、目の前にいる弟へ視線を投げた。
「死んだはずのあなたが首謀者だなんて思いたくなかった。何かの間違いだって思いたかった。だけど」
「死者は蘇った。冥府王ハデスを従えて、ね……ハデスの心さえつかめてしまえば、あとは振り返らずに出口へ向かうだけさ。簡単だろう?」
 アシュレイはそう嘯いた。蒼い瞳に、悪戯をする子供に似た微笑を浮かべて。
「今日は改めて、サラ……我が妹セレネに宣戦布告をしに来たんだ。僕は、僕を『なかったこと』にしたこの世界に――彼を『取り込んだ』この世界に、復讐をする」
 存在を『なかったこと』にした世界に対する復讐。それは、どういう意味なのか。光矢はセレネの肩から両手を外し、立ち上がってアシュレイを眺める。
 依然として、少年は笑みをたたえている。だが、その表情を他ならぬ彼自身の気配が否定していた。蒼い瞳の奥はどこまでも冷めている。年齢にそぐわぬ、冷たい何かが潜んでいる。
 突如、光矢の視界にノイズが走った。思わず額を押さえるが、何とか体勢は崩さずに済んだ。エンデュミオンの記憶がリフレインされる。
 暴走する車、帽子の少年、紅に染まる視界、焼きついた――冷たい蒼。この、少年が。
「ニーナ……曙の女神エオスも、風の神々も、全知全能の神すらも、この世の僕を受け入れはしなかった。だから、力だけをありがたくいただいたよ。そうすれば、うるさい口も反発する意思もないからね。それ以外は全部棄てた」
「アシュレイ……! あなた、何てことを……!」
 珍しく、セレネが語気を荒らげた。涙をたたえた眼差しには、強い怒りの色すら浮かんでいる。白い手が白い敷布を握り締め、白い敷布はしわを刻んだ。
「どうして、どうしてなの!! そんなことをしたって、何の解決にもならないじゃない!!」
「なるさ。してみせるんだ、そうしなくちゃ意味は無い」
 笑みを声に含ませて、少年は繰り返す。
「『神の国』はそのために作る。僕を消し去り、彼を取り込み、何事もなく存在するこの世界を……そっくりそのまま『同じ』にする。それが僕の望み。それが彼の願いなんだ。誰にも邪魔なんてさせない。僕を否定し、彼を否定してきたこの世界の誰にも」
 正気の沙汰とは思えない言葉に、光矢はただ彼を見つめるしかできなかった。彼を突き動かすその憎しみは、どこから来ているのだろう。
「大丈夫だよ、光矢お兄さん」
 さぞ不安そうだったのか。アシュレイは再び無邪気に笑う。
「今はそのときじゃない。だから、僕はあなたを襲わない。もっとちゃんとしたフィールドを用意してあげるから、少し待っててね。決まったら、ちゃんと連絡するから。じゃあまた、いずれ」
 アシュレイは優雅に身を翻し、戸口へと歩みを進めていく。
「ま……待って、アシュレイ君!」
 何とかして声を絞り、光矢は静止を呼びかける。あえてアシュレイと呼んだのは、彼がヘリオスだと信じたくなかったからかもしれない。
「エンデュミオンをはねたのは、君なんだな? 何のために? どうして――」
 ドアノブに手をかけたまま、彼は振り返らずに答えを放った。
「肉体がなければ、魂に宿る力を取り込みやすい……冥府の王がそう言ったんだ。体が邪魔だった。だから、はねた。それだけ」
 遠ざかる足音は、沈黙する二人に重く降りかかっていくばかりだった。

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(2009.2.2)



第三章 其ノ5「真見者」

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