第四章
其ノ1
『復讐者』
(ふくしゅうしゃ)


 セレネはあの後、しばらく一人にさせてほしいとだけ呟いた。
「戦うっていう意志は、あるみたいです」
 ――私は大丈夫。アシュレイの言葉の意味は、また後で話すから……ちょっとだけ、心の整理と覚悟を決める時間を頂戴。
 そう言うセレネの瞳に迷いはなかった。涙に濡れた蒼が映す光に、光矢はただうなずくしかできなかった。
 血を分けた実の兄であり、実の弟。だからこそ、自分が止めなければ、と思ったのだろうか。推測するしかできないが、想像することくらいなら光矢にもできる。
「だがよ……」
「いいじゃん、別に。セレネが自分で決めたことなんだからさ」
 ソファの肘掛に頬杖をついて、豊高が軽く片手を振った。武がにらんでもどこ吹く風、器用に片眉を上げて視線を返す。
「俺たちがどうこう言うような野暮なマネ、できないっしょ。……しっかし、これで完全に全面戦争って感じだな。俺ら勝てんの?」
「どういうことだ、えぇ!? 俺が弱いってぇ言いてぇのか!!」
 武が椅子を蹴り飛ばし、そのまま豊高につかみかかる。しかし、胸倉をつかまれても豊高は平然としている。慣れている、とでも言わん態度だ。
「おいおーい、分かってねぇなあお前。違うってば。お前がどうこうじゃなくて、全体的な戦力の話だよ」
 両肩をすくめ、呆れたように彼は言う。
「俺もお前も、力はそんなに無いわけじゃん? 対する向こうは魔女キルケ、魅惑術持ちのアフロディテ、俊足ヘルメスにあのハデス。『双刃』もまあ、入るか。それにヘリオス。光矢クンの話じゃ、ヘリオスは他の神の力を吸収してるんだろ?」
「いや……まあ、会話からの推測ですけど」
 あの口ぶりでは、恐らくそういうことなのだろう。他は棄てたと言っていたが――想像、したくもない。首を振って、派生しそうな考えを終了させる。
「んでさ。キルケは昔ほどじゃねーけど魔法が使える。アフロディテもそうだろな。あと一人いたが、まあそれは置いといて。問題はハデスだな。あいつ、魂の同化の奴だから強いぜ。だから魂から力抜き出すって芸当もできんだろ」
 知らない単語が出てきた。それとなく武を窺うと、
「人間の魂と神の魂が完全に同化しちまってるってことだ。媒介無しで力を発揮できる。おそらくヘリオスの次くれーに強ぇンじゃねえか」
 彼は視線に気づいたのか、ぶっきらぼうに教えてくれた。
 一方こちらは、力が弱いらしいアレス、同じくディオニソス。神としての力はほぼゼロに近いセレネのみ。水穂はそもそも戦えないし、中にいるエンデュミオンは光矢の意思では浮上してこない。那月も戦力外だ。
「……勝てない、じゃないですか」
 半ば絶望的の状況に、愕然とする。これでは勝てるどころか、全員が無事で済むか分からない。ぞっとして身をすくめ、光矢は思わず豊高を見つめた。
「うん。勝ち目ないな」
 あっさりとうなずかれた。絶望に打ちひしがれながらも、震える声で切り返す。
「駄目……じゃ、ないですか」
「そういうときにこそ、俺の出番ってぇわーけ」
 未だつかまれたままの武の手を外し、豊高は反動をつけて立ち上がる。
「題して! 陶酔と狂気、そして演劇の神ディオニソスが――敵陣に潜入して寝返らせよう大作戦!」
 ポーズすら決めている。前々から思っていたが、この人空気が読めないらしい。あえて読んでいないのかもしれないが、それはさておき。
「一人で乗り込むだけの力なンざ、てめぇに残ってねぇだろ」
「うん。狂気とか陶酔とか蔦操ったりとかもできないし、変身したりさせたりとかも無理。ぶっちゃけ、ディオニソスだけだとヤバイと思う。チェンジしてる間にやられると思うぜ」
 あっさりと認められた。胸を張って堂々と言えるようなものなのか、それは。
 呆れてものも言えない光矢たちに向けて、しかし彼は不敵に笑う。
「だけどね。向こう側にいる人物になりきって『演ずる』ことなら――可能だぜ?」
 つまり。
「怪しまれないように変装して……乗り込むってことですか!?」
「そういうこと。それで、見込みがありそうな奴に話聞いて説得して、こっち来てもらう」
 そんな簡単にいくのだろうか。意外にも真面目な顔をして考え込んでいる。
 と、彼は顎に置いた手を外し、豊高に低く問い掛けた。
「……確率は」
「相手にもよる」
「……、やってみろ」
「先輩!?」
 さらに意外だった。何かにつけて豊高を敵視している彼が、そんな許可を出すなんて。驚いて硬直してしまった光矢に向けてか、武は眉間のしわを深めた。
「勘違いすンな。今の俺らにゃ力が足りねぇ。ヘリオスが力ぁ他の奴から吸収してるとすりゃ、なおさらだ。てめぇが潜入してる間に、俺らは別の協力者を探せばいい」
 呆然とする光矢を他所に、二人はにらみ合う。
「分かったンならとっとと行け」
「期待されちゃってんなら仕方ねぇなあ。行ってあげるよ、素直じゃない剣間クン」
 本当に大丈夫なのだろうか。光矢は一つ、息をついた。

 変装してくる、と豊高が去って三十分くらいは経っただろうか。
 突如扉が軋み、届いた声は。
「Hey,ムサ苦しい野郎ども。可愛い子猫ちゃんと……ついでにエンデュミオンをもらいに来たよ」
 いつぞやに聞いた嫌味たらしい台詞であった。
 光矢は反射的に腰を浮かし、武も首のチョーカーに手をかけている。
「ヘルメス様がじきじきに来てやったんだぜ? もっと盛大にお出迎えしてくんないかなぁ?」
「てめぇ、どこから……」
「そこから」
 ふてぶてしく、入ってきた扉を示してヘルメスが言う。
「Knockしなかったのは悪かったね。だって野郎ばっかじゃん? いらないかなと思ってさぁ」
 ポケットに手を突っ込み、そこから取り出したのは――小さな糸巻き。
「これ、なーんだ。……さっきぶっ倒したディオニソスから、こんなもの奪ってみたんだ。どうやって使うのかは……ま、いろいろやれば大丈夫かな」
 慣れた手つきで皮手袋をはめ、ヘルメスが髪をかきあげる。その瞬間、紫の光沢が光矢の目を射抜いた。
(あれ……?)
 ヘルメスの耳元を、アメジストのピアスが飾っている。無骨なシルバーのピアスが並ぶ中、一つだけが浮いて見えた。作りが違うのだ。他のものと異なり、シンプルで小さい。そして、あの手袋。豊高が縦横無尽に張り巡らせた糸で『双刃』を拘束した、あの時につけていた手袋だ。一見するとただの皮手袋にしか見えない。
(変だな……)
 そう。一見するとただの手袋。だが、暗殺のプロが扱うものだ。おそらくは特注品だろう。鉄の腕輪すら両断する糸、それを繰るにはその手袋でなければならない。ならばなぜ、他人から見ればただの手袋を、さも当然のように糸巻きとセットで持ってくる。
 光矢は臨戦態勢に入っている武を押し留め、ヘルメスへ向けて声を張った。
「先輩、待ってください。あなた、龍川さんですね」
 一拍の間を置き、朗らかな笑い声が問いに答えた。
「ご名答! しかし、一つ訂正をさせていただこうか」
 豊高は紳士的に手を叩き(非常にミスマッチだ)、髪の毛に手を差し入れた。ぱちんと小さな音が鳴り、次いで茶色のウイッグが彼の手へと流れ落ちる。
「私の名はディオニュソス。酒と葡萄、情熱と狂気、そして演劇の神――もっとも、今はそのほとんどの力を失っているけれどね。これくらいの芸当ならば朝飯前さ」
 豊高、否、ディオニソスは目を細めて微笑んだ。
「ホントかよ。頼むぜ……」
「何、いざというときには豊高に代わって何とかしてもらおう。私はこれ以外何もできないからな」
 明るく陽気に他力本願だった。嘘はついていないと確信できるほどに潔い。押し込めていた不安が再び蘇ってくる。
「……本当ですか、龍川さ……じゃなくてディオニソスさん」
「任せなさい。こう見えても、信仰をやめさせようとした男を酷い目に合わせてやったんだからね。それから私の名前はディオニュソス。豊高も言えていないんだが、間違えないようにしてくれたまえ」
 なんだか本当に不安である。大丈夫なのだろうか。
 武を恐る恐る横目で窺う。案の定、「失敗したかもしれねぇ」と顔に書いてあった。
 そんな自分たちを尻目に、ディオニソス……ではなくディオニュソスは笑う。それは、まるで死地へと赴く戦士のように、清々しい笑顔であった。



 その日の昼下がり。光矢は久しぶりに花屋を訪ねた。
「兄貴、はいコレ」
 仕事中の兄に弁当を渡す。一旦家に戻って作ったものだ。気分転換もしたかったし、久しぶりに差し入れをしてあげたかった。
 なお、西嶺のお嬢様が「うちのシェフに作らせる」と意気込んでいたが、丁重にお断りさせていただいた。こう言ってしまっては悪いのだが、一般庶民の家で暮らした兄の口に合うのか疑問なのである。
 那月もついてきたがったが、こちらも丁寧に断った。心のほうは比較的落ち着いてはいるが、体が追いついていない。今後のこともある、だから無理をさせたくはなかった。
「ありがとう。すまないね」
 水穂がいつもの微笑みを浮かべて受け取る。以前に比べて少しやせたかもしれない。元々色が白いほうだが、いつにも増して白く思えた。
「大丈夫?」
「……ああ、平気だよ。ありがとう、光矢」
 頭を撫でてくれる、その手の感触が辛い。
「まだ、あいつのこと気にしてるの?」
「あいつ?」
「太田原さん」
 かすかにうつむき、水穂が小さく息をつく。足下にうずくまっていたヘクトルが小さく鳴いた。
「それも……あるけど」
 躊躇いがちに、彼は言葉を連ねていく。
「時折見える映像が、……」
「映像?」
「多分、俺の……中にいるっていう、女性のものだと思う。預言者のカッサンドラ……その人が、俺に教えてくれるんだ」
 ハーネスが小さく音を立てた。ヘクトル自身も、水穂を励ますように手のひらを舐め、鼻を鳴らしている。押し付けられる鼻を撫でながら、水穂は一つ頭を振った。
「みんなが戦っているって。血だらけになって、傷だらけになって……こんなことがあっていいのかと、止められる方法はないのかと……そう思っても、何もできない。ただ無事を祈るしかできない……」
 穏やかな笑みは消え、兄の閉ざされた瞳をまつ毛の影が縁取った。
(ああ、そうか)
 光矢は不意に思い至り、兄の手に収まった箱を眺める。藍色の地に白の絣、箸は兄の愛用品だ。名前をつけて大事にしている、父からの贈り物である。学校が休みの度に、こうして渡して帰っていた。
 今までの日常の軌跡がここに残っている。そしてきっと、この日常へ帰ってこれるはず。
(俺も兄貴も他の人も、みんな……『自分』が帰る場所を持ってるんだ)
 神の魂を持っていようといなかろうと、皆今を生きている『自分』が戻る場所を持っている。
 心配してくれる人がいる。待っている、人がいる。帰ってこなければならない。この場所に――待つ人のいる場所に。
 自分が『自分』であれる場所に。
「兄貴」
 両肩に手を置いて、光矢は水穂を真っ直ぐに見つめた。
「大丈夫。無事を祈ってくれるだけでいいよ」
「光矢」
「だから待ってて。那月さんと一緒に待っててよ。俺、絶対帰ってこれるよ。そこが俺の帰る場所だからさ」
 泣きそうだった水穂の顔に、淡い笑みが重なった。
「うん……お前がそう言うなら、信じて待っているよ」
 優しい響きが余韻を残す、それと同時にガラスが開く音がした。
「ビンゴ! 間に合ってよかったわ」
 それと共に突如滑り込んできた少女の声は、以前よりも大分大人びて聞こえた。とっさに振り向いた光矢の瞳に、鮮やかな緑のワンピースが飛び込んでくる。
 柔らかな髪は水気を含み、肩にかかったタオルに乗せられていた。大きな瞳は真っ直ぐにこちらを見据え、長いまつ毛が幾度も瞬く。半袖ブラウスから覗く腕には、水着用のバッグが引っかかっていた。透明なビニールに描かれたカラフルな花は、重力と遠心力でくるくると回り続けている。
 花丘美奈世。愛と美の女神、アフロディテの生まれかわり。光矢を捕らえるため、周囲の男性を魅了の術で惑わせた、ヘリオスの刺客。
 混乱して何も言えない光矢に向けて、彼女は小さく頭を下げる。
「突然ごめんなさい。ちょっとお話がしたかったの。お時間いいかしら」
 ガラス戸に反射する夏の陽射しが、少女の真剣な眼差しに映りこんで揺れた。

(2009.2.2)

其ノ2「戦臨者」

第三章其ノ5「真見者」

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