第四章
其ノ2
『戦臨者(上)』
(いくさのぞむもの)


 たどり着いた公園では、子どもたちが追いかけっこをして遊びまわっていた。母親たちは木陰のベンチで一休みしながら、おしゃべりに花を咲かせている。小さな影が跳ね回り、その動きにあつらえたかのように木漏れ日がちらちらと揺れた。
「つき合わせちゃってごめんなさいね」
 美奈世は言いながら、彼らとは離れた場所のベンチに腰をかける。足をそろえて座る彼女の姿は、一瞬見間違えるほどに大人びている。
「別にいいけど……話って、何?」
 光矢はその隣に座り込み、額の汗を丁寧に拭った。木々の葉の間から漏れる太陽の光が、所々で目に入る。蝉の声が雨のように降り注ぎ、真夏の空気を震わせていた。
「うん。あのね」
 視線は子どもたちへと向けたまま、美奈世は呟くように切り出した。
「……どうして私たちが『あっち』についたか、ちょっと話しておこうと思ったの」
 ほんのわずかに、風が流れる。生ぬるいそれは、双方の髪を緩やかに撫でて通り過ぎていく。
「そりゃまた……なんで」
 疑問を口に出してから、光矢はしまったと思った。これではあからさまに警戒しているではないか。いや、実際に警戒しているのだけれども。
 それが伝わってしまったのか。彼女はこちらへ目を向けて、かすかに苦笑した。
「何となく。もう一回くらいお話したかったし……たぶんこれで最後になっちゃうから。そんなに心配しないでね、私が個人的に話したいだけだから。アフロディテにもちゃんと言ってあるし」
 とは言うものの、やはり一度は襲撃された身だ。警戒するなというほうが無理である。用心深くなってしまうのは仕方がない。光矢はあえて沈黙を選んだ。
 気まずい間のあと、美奈世が小さく息をついて肩をすくめる。
「ま……当然か。敵側の人間を信じろなんて、そんなこと言われてもって感じだもん」
「あ、いや、その」
 反射で弁解しそうになるが、美奈世は笑って首を振る。
「いいのいいの。ホントのことでしょ? だから、私の独り言だと思って聞いててくれればいいよ」
 言いながら、細い首を巡らせる。柔らかく湿った髪が、彼女の肩から流れ落ちた。
「みんな、居場所が欲しいのよ」
 遠くを眺めて、美奈世が言った。
「あそこにいる人たちって、何だかんだで皆居場所が無いの。キルケは現世のおうちを追い出されて一人ぼっちだし……ヘルメスは、学校も家もつまんないんだって。ハデスも昔の記憶が無いらしいから、どっちみち行くとこがないのね」
 美奈世は指を折りながら、名前と理由を挙げていく。少女特有のしなやかな指先に、木漏れ日が粉となり光を散らした。
「私は……今家族と喧嘩して家出中。前は家族と喧嘩したら、武ん家行ってたんだけど……今じゃそれもできないし」
 中学生で家出とは感心しないが、よほどの事情があるのだろう。呟くように語る彼女の瞳は、どこか暗い影を落としている。
「だから、ヘリオス様が誘ってくれたときは嬉しかった。どこに行けばいいのか分かんなかったから。キルケも私のことお姉ちゃんみたいって言ってくれて……妹が出来たみたいでね、割と満足してる」
 でもね、と彼女は息をつく。それから折り曲げた指を一本伸ばし、くるくると回した。まるで呪文を唱えているようだと、ぼんやりと思う。
「あの人は『神の国』を再建して、もっといい場所をくれるって言ったし、願いもかなえてくれるって言ったの」
「願い?」
「うん。願い。みーんなバラバラよ。だけど、ヘリオス様のお手伝いをすれば、絶対かなえてくれるって約束したの。私たちだけじゃなくて、私たちの中にいる神様たちの願いもよ」
 光矢はそのまま何気なく、数ヶ月前の記憶をたどった。初めて彼女に命を狙われた、あの時の言葉を引っ張り出す。
『私さぁ、お兄さんを捕まえたら、今よりもっと美人にしてもらえるんだぁ』
『そしたら、武のこと見返してやれるの』
 武のことを見返す。それが彼女の願いなのだろう。
 考えてみれば、武と美奈世は付き合っていた割に仲が悪い。会えば口喧嘩になるほどなのだ、きっと盛大な口論の末、別れたに違いない。恋愛事に疎い光矢でも想像するには難くなかった。
 彼女の口ぶりから察するに、恐らく振ったのは武のほうだろう。そして少なくとも、美奈世はそのことに対して怒りを抱いている。でなければ、『見返す』という言葉は出てこない。
「ちなみにね、アフロディテは『全世界の男を昔のように跪かせる』ことですって」
 とんでもない願いだった。やりかねないところが恐ろしいが、当の美奈世は全く気にしていないらしい。面白そうに笑っていた。
「自分のことなんだから、自分で中身も外見も磨けばいいのに。馬鹿よねぇ」
 その言い方が妙に引っかかる。光矢は眉を寄せて、少女を見つめた。
 美人になって武を見返す、その願いを根本から否定してしまっている。他人事にしては自嘲的すぎる物言いだ。まるで、美しくなることを最初から望んでいないような。
 と、美奈世が微笑んだ。眩しそうに目を細めて、今度は光矢を眺めている。
「今、お前が言うなって思ったでしょ」
「え、あ、や、えーと……えーと」
 図星と言えば図星だった。否定しておかねばならないが、焦ってうまく口が回らない。言い訳すら思いつかなかった。しどろもどろしていると、美奈世が再び肩をすくめる。
「いいよ、無理しなくて。光矢さんがどう受け取ったところで、私が責める理由なんかないし。実際その通り、だしね」
 フォローされてしまった。何だか切ない気がする。これではどちらが年上か分かったものじゃない。いたたまれなさがちくちくと胸を刺してくるので、光矢は思わず膝を抱えてうずくまる。恥ずかしい。
 しかし、そのいたたまれなさも長くは続かなかった。彼女が不意に見せた表情に、言葉に――どきりとする。
 視界の端で見た美奈世は、中学生とは思えないほど大人びていた。大きな瞳は、再び遊ぶ子どもたちへと注がれている。どこか寂しそうに、どこか切なそうに、眺めている。
「だけどね。本当は……美人になって武を見返すことなんて、どうだっていいの。最初はそうだったけど、今はもう、どうでもいい」
 それならばどうして、ヘリオスの下にいるのだろう。面食らう光矢を他所に、彼女は声に笑みを含ませながら繋いでいく。
「私たちね、今もまだ『あの時』の続きをしてるの。お互い頭に血が上っちゃって、売り言葉に買い言葉で喧嘩別れした、あの時のね。どっちが先に謝るか――意地の張り合いなのよ、結局のところ。馬鹿みたいでしょ?」
 肯定することも、否定することも、光矢にはできなかった。自嘲する彼女の顔が、痛々しくて見ていられない。目線をわずかにずらし、視界に入らないようにする。美奈世はきっと、頭のどこかでは分かっているのだ。こんな意地の張り合いに意味などない、と。
 光矢の心の中を見透かしたように、少女は呟く。
「……賭けなのね、きっと」
「賭け?」
「プライドだけは高いからね、お互いに。自分から謝るなんてしたくないの。謝れないから、私は武のところには戻れないし、武も私のところに戻っては来れない」
 冗談めかしてはいるが、やはり寂しげな音が混じっている。
「『あの時』の続きって言ったのは……また仲直りできるかもしれないっていう、私なりの賭けなんだと思うの。居心地がいいのはどっちなんだろうっていう」
 喧嘩の延長線、意地の張り合い。自分の居場所はどちらが相応しいか、見極めるための賭け。いかにも子どもっぽい理由なのに、彼女の言葉には決してそんな色は見えなかった。それどころか、いっそのこと悲愴ささえ感じられる。
 彼女の家庭で何があったのか、光矢には分からない。聞くつもりもない。ただ漠然と、彼女が不安であるということしか理解できない。家には居場所がないのだろうと推測することしかできない。
 けれど。だからこそ、それは理由になりえる。丁度美奈世と同じ頃……水穂が失明する直前の、あの時の感情と似ている。寂しいとき、不安なときこそ、安心できる場所を求める。人として当然のこと、当たり前のことだ。
 そこまで考えて、光矢は思わず美奈世を見つめた。美奈世もそれに気付いたのか、驚いたように瞬いている。
「ど、どうしたの? 急に」
「美奈世ちゃん」
 一瞬、迷う。この推測が正しいのか、言っていいものかどうか。だが、迷っている時間はない。この次はたぶん彼女の言うとおり、こんな風に会話はできないだろうから。
「まだ、先輩のこと好きなんだね」
 沈黙が降りる。気まずさがじわじわと足下から忍び寄ってくる。静寂の合間を埋めるのは、子どもの笑い声と木々のざわめきだけだった。
 そのわずかな流れの中、美奈世がぽつりと囁く。
「……そうじゃなかったら……こんなこと、しないわよ」
 乾き始めた彼女の髪を、風が通り抜けていく。陽の光に照らされて、柔らかな茶色を金に染めていく。泣き笑いにも似たその表情に、光矢の胸の奥が痛んだ。
「たった一言、ごめんね、まだ好きなのって言えばいいのに、そんな簡単なことだってできないの」
 泣くかと思ったが、彼女は泣かなかった。代わりに笑みを強くして、また肩をすくめる。モデルのように似合うその仕草が、なぜかひどく悲しく見えた。
「馬鹿よね、ホントに」
 強く吹きつけた夏の風に、彼女の微笑と言葉が溶けた。

(2009.4.30)



其ノ1「復讐者」

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