第四章
其ノ2
『戦臨者(上)』
(いくさのぞむもの)
美奈世と別れた光矢は、一旦自宅に戻ることにした。別に何がどうということもないのだが、あのお屋敷に慣れてしまうと今後が大変になりそうな、そんな気がしたのだ。制服が埃を被っていないかも心配だし、一度くらいは換気をしておきたい。 いつもの角を曲がる。西嶺家の車が止まっていた。運転席に執事の寺村氏が乗っている。目が合うと、彼は丁寧に礼をしてくれた。ちょっと頭を下げてそれに答え、尋ねてみる。 「どうしたんすか」 「剣間様をお待ちしています」 「先輩を? ……来てるんですか」 思わず閉まったままの戸口を見やる。最近は特に怒らせるようなことはしていないつもりだが、何かやらかしたのだろうか。 老紳士は左様でございます、と言い、光矢の様子を察してか優しく笑う。 「特にご機嫌がよろしくない、ということはございませんでしたよ」 「は、はあ……」 もう一度頭を下げてから、光矢はそっと扉を開けた。 案外埃っぽくないことに安堵する。そういえば、西嶺家専属の執事がたまに世話をしてくれていると聞いた。いろいろと忙しいはずなのに、申し訳ない。あとで何かお礼をしないといけないだろう。 そんなことを考えながら、リビングに入る。紫煙が目の前を通り過ぎ、 「よぉ」 ――武の声が、それを追った。 「何だ、お前も来たのかよ」 軽く会釈を返し、様子を窺う。いつもの通り、テーブルの上に足を乗せて煙草を吸っていた。寺村氏の言うとおり、特に怒っている様子はない。 (いや、何で俺先輩が怒ってるって思ったんだ) 自問してから、思い当たる。 (そうか……美奈世ちゃんに会ったからか) 美奈世はまだ、武のことが好きなのだという。ならば、武もまだ美奈世が好きなのだろうか。 「……先輩」 「あ?」 一拍の間を置いて、光矢は切り出す。 「美奈世ちゃんに、会ってきました」 武の表情が変わる。それは、苛立ちと呼ぶにはあまりにも複雑そうなものだった。 「……何?」 「会って、話をしてきました。何でみんな、ヘリオスの側についてるのか……教えてくれました」 紫煙が渦を巻いて消えていく。奇妙な静けさが二人を包んでいる。床の冷たさが、足の裏からじわじわと伝わってくる。 「美奈世ちゃんは、自分で賭けをしてるんです。先輩とヘリオスと、どっちが自分の居場所なのか。どっちが、自分を受け入れてくれるのか」 反応はない。わずかに光矢から視線を外して、ただ煙草をくゆらせていた。 「答えなんて最初から分かってるのに……謝れないから、こうやって賭けをするしかないんだって。そう言ってました」 また一拍、間が開く。武の反応は、ない。 「……先輩は」 「お前にゃ関係ねぇだろうが」 武がうつむき、遮った。遮る言葉は、予想以上に弱かった。 「俺がどうだろうが、あいつがどうだろうが。お前にゃ、関係ねぇ。俺とあいつは今、敵同士だ。それ以上にも以下にもなりゃしねぇ……あいつがどうだろうが、俺の知ったこっちゃねぇ。好きにやらしとけ」 まるで自分に言い聞かせるような、思い込ませるような、そんな音で彼は言う。いくら疎い光矢でも、嘘だとすぐに分かった。目線が合わない。合わせたくないのだろう。彼らしくもない。いつだって真っ直ぐにこちらをにらむ彼が、下を向いているなんて。 「それ、俺の目を見ても言えますか」 一瞬だけ、いつものようににらまれる。しかしそれもまた、すぐに逸らされてしまった。 「……嘘ですよね」 舌打ちされたが、やはり覇気が無い。 「美奈世ちゃんのこと、迎えには行ってあげないんですか」 今度降りたのは、長い沈黙だった。紙筒から細く立ち上る煙は、頼りなく揺らめくばかりである。燃えつきた灰が音もなく折れ、灰皿に溜まった。 「……行って、どうすンだよ」 やがて答えは返された。テーブルの一点を見つめて、低い呟きが漏れる。 「謝れねぇのに、どうやって迎えに行くってンだ。だからこうなってるのによ」 「怖いんですか」 「ああ。怖ぇよ。あいつを受け止めきれるのか、分からねぇから怖ぇンだ」 聞いた自分が一番驚いた。怖いものなんて何もないと思っていた先輩が――美奈世を受け止めるのが怖いと、言ったのだ。 「あいつ、とンでもねぇとこに出入りしててよ。成り行きで止めて、ついでに世話して、ンで付き合うようになって……それなりに楽しかった。でも」 武がふと声を切る。昔を思い出したのかもしれない。目元に手のひらを置いて、かすかに顎を上向けた。 「……俺はあいつを受け止めきれなかった。重かったンだ。あいつの全部を、受け止められなかった。だから、意地張りっぱなしで逃げてる。逃げながら、同じことをもう一回やるンじゃねぇかと思っちまって、また謝れなくなる」 俺もまだまだガキだな。彼は力なく笑った。目元は依然として隠れたままだ。 光矢はふと、水穂がさらわれたときを思い出す。 目をつむって、耳を塞いで、それでなかったことにするのは――臆病者や卑怯者のすることだ。武は、否、アレスはそう言っていた。この言葉は、もしかしたら武自身の声だったのかもしれない。美奈世のすべてを受け入れられず、逃げ出した自分に対するものだったのかもしれない。自分のようになるな、現実を受け止めて耐えろと、そういう意味だったのかもしれない。 「先輩」 息を一つ吸って、吐く。 「じゃあ、今度は大丈夫ですよ」 手が少しだけどけられた。武の目が、じっと光矢に注がれている。 「先輩、ちゃんと分かってるじゃないですか。だったらきっと、うまくいきます」 「根拠もねぇのによく言うぜ」 「そういうの、得意なもんですから」 軽く茶化すと、武も軽く笑ってくれた。 「先輩が意地っ張りなのはよく知ってます。美奈世ちゃんも気ぃ強いですし、何となく理解はできますけど……意地張るのちょっとやめて、お互い素直になってみましょうよ」 「そう簡単にできたら苦労しねぇし、できてたらこンなややこしいことになってねぇよ」 もっともな意見だった。想定の範囲内である。だからあえて、踏みとどまる。 「先輩、まだ美奈世ちゃんのこと好きなんですよね?」 そっぽを向かれた。図星なのだろうか、一気に不機嫌そうになる。が、否定はされなかった。それはつまり、肯定だということに他ならない。 「じゃあやってみなくちゃ分かんないじゃないですか。逃げてばかりだと、分かるものも分からなくなっちゃいます。どんなものでもいい、形にしなくちゃ伝わらないですよ」 空気が動いた。武が体勢を変えている。真正面からじっと、光矢を見つめていた。いつになく真剣な顔で、何も言わず。 光矢もまた、彼を見つめる。見つめて、言う。 「美奈世ちゃん、先輩のこと待ってますよ」 『そうじゃなかったら、こんなことしないわよ』 意地を張って、でも誰かに止めてほしくて、彼女はあえて賭けをした。もうそんなことをしなくていいんだと、言ってあげなければならない。その『誰か』の役目は、武しか務まらないのだ。答えなんて最初から決まっている。躊躇う必要なんかない。 武が煙草を一口吸った。筒の先が紅く灯り、次いで煙が吐き出される。息の流れる音と共に、煙は波になって消える。 「……、覚悟ができたら……そのとき、言うさ」 素直になれない紅の獅子が、低く強く、宣言した。 「今度はちゃんと受け止めるから……俺の傍を離れるな、ってよ」 その宣言をしっかりと胸に刻み込む。戦いは避けられないけれど、これならばきっと大丈夫。確信にも似た思いを抱え、光矢も大きくうなずいた。 「はい。お願いします」 笑みを浮かべて頭を下げると、彼にしては珍しく、頬を染めてそっぽを向いた。 (2009.5.9) |