第四章
其ノ3
『戦臨者(下)』
(いくさのぞむもの)


 絨毯の敷かれた廊下は、足音を消すのにはもってこいだ。気配の流れてくるほうへ、少しずつ歩を進めていく。
「ここか……?」
 彼の小さな呟きの向こう側、声が複数聞こえてきた。全て男、数は二。気配は三つあるから、おそらくハデスもそばに控えている。
 音を立てぬよう少しだけ開く。それから息を殺し、中の様子を窺った。
「これを返そう、伝令神」
 白い衣服の少年は、対面する青年に何かを手渡した。青年が明らかに狼狽する。
「なっ……こ、これ」
「ケーリュイケオン。お前がかつて持っていた杖だな。他ならぬ私が取り上げたわけだが……ディオニュソスに折られた剣では、媒介にすらできまい」
 思い当たる節と言えば、那月の奪還の際だけだ。上手い具合に絡んで折ったのかもしれない。もっとも、ほとんど外野のことだったゆえ、自分には折った記憶など無いのだが。
 話は続く。
「あの剣の模造品……媒介として強い効力を発揮したのは、ケーリュイケオンに形が似ているからだな」
「……はぁ。まあ、その通りですけど。Maybe」
「これを返す。まがい物は所詮まがい物、本物でなければ真の力を発揮はできん」
 少年は青年に杖を渡す。青年は複雑そうに杖を回し、親指で撫でる。杖はたちまちにその身を縮め、小さな何かに変化した。暗くてそれが『何』までかは確認ができない。
 それをポケットにしまいこみ、青年は肩をすくめてこう言った。
「ま……俺は楽しけりゃ、それでいいです」
「ほう? いい、とは」
「前も言いませんでしたっけ?」
 青年は、笑ったらしかった。おかしそうに、場違いなほどに明るく言い切る。
「It's tedious every day. I want stimulation――」
 毎日は退屈だ、だから刺激がほしいだけ――その意味を汲み取ったのか、少年もまた、喉の奥で笑ったようだった。
「私のところではなくて、あちら側でもよかったのではないのか? ヘルメス」
 青年は笑みを含ませ言葉を返す。
「別に、どっちでもよかっただけですよ。ま、こっちのほうがCuteなお嬢さんがいる分だけ、マシかなって感じですね」
 それは冗談のように聞こえるが、一片の嘘も混じってはいない。むしろ言葉とは逆に、彼は自らの意思でここにいるように思えた。そして実際にそうなのだろう。確証こそ得られてはいないが、それはひどく的を射ている気がしてならなかった。
「それに……It's a promise.俺はですね、約束してくれる人が大好きなんですよ。約束をホントにしてくれる人は、もっと大好きです。約束は俺に場所を与えてくれる……その保障を、あなたはしてくれた。だからこっちについた……You see?」
「ふふ、おかしな男だな」
 少年らしからぬ低い笑いに、明るすぎる笑いが重なる。
「Queer old stick,ですからねえ」
「期待しているぞ、ヘルメス」
「I see,I see」
 彼は会話を聞きながら、そっと戸口から身を離した。
 キルケは父親を盲信している。ヘルメスは、裏切るつもりは皆無のようだ。アフロディテは分からないが、残る二人がこれでは期待できない。つまり、説得は不可能に近い――そう判断せざるを得なかった。
「そうと決まれば長居は無用、だね」
「なんだ、もうちょっといてくれりゃ面白えのによぉ」
 彼の独り言に、答えが返った。
「遊ぼうぜぇ、『糸巻き』ぃ」
 次いで激しい落下音、砂嵐の起こる音、それも唐突にぶつりと切れた。

+++

「……こういう、わけなんです」
 豊高は神妙な顔つきで、そう締めくくった。不自然に途切れた音の残響が、静まり返った部屋にいつまでも漂っている。
 彼の入れてくれた解説のおかげで、ある程度の想像はできた(とはいえ、その解説があまりにも長いため、一々レコーダーを止める必要はあったけれど)。
「ピンチかったって、これのことですか……」
「そそそ。どうも途中からばれてたっぽいんだよね。だからヘリオスが指示を出して、『双刃』が上から落ちてきたってぇわけ。あっぶなかったぜー、うっかり落としちまってさ、回収できねーんじゃねーかと思った」
 指を振って豊高は語る。その楽天的な物言いは、本当にピンチだったのか疑ってしまうくらいに明るかった。音声を聞く限り本当に危なかったのではあるだろうが、それにしても能天気すぎやしないだろうか。喉もと過ぎれば何とやらなのか、はたまた心配させないための演技なのか、素か。
 そこまで考えてから、光矢は思考を打ち切った。この人は元々こういう人なのだ。悩んでも仕方がない。
「ともかく! これで分かったろ? あちらさんの状況ってやつがさ」
「一人も説得できねぇで帰ってきた割に、現状を録音して帰ってくるたぁな。ま、四十点ってとこか」
 武が煙草をふかしながら言う。特に感心している風にも見えないが、かといって馬鹿にしている風でもなかった。情報は有用だと、一応は認めているらしい。言葉の端々に棘が見えるのは、この際気のせいにしておく。
「だっろー? 俺が命張った甲斐あって、ここまで分かったってもんだね! 感謝しろよ感謝」
「あーあーすげぇすげぇ」
 おざなりな持ち上げ方にも得意顔で、豊高が胸を張っている。それだけ適当なのに喜ぶんだ、と光矢は少しだけ気の毒になった。何も知らないって、空気が読めないって、ある意味幸せなんだな。しみじみとそう思う。
 それはさておき、相手方の心境が分かった今、どういった作戦を立てるかが鍵となる。少なくとも『あちら』の人間勢は、ヘリオスの下を離れる気がない。彼らの中にいる神々はどうなのかは分からないが、今までのことを振り返る限り、友好的であるとは考えられない。面白半分で加勢しているものもあるだろうし、もしかしたら本気で彼の『計画』に賛同しているのかもしれない。どの道、説得をするのは難しいだろう。
 ――圧倒的に不利であることは明確だった。せめて自分が戦えれば、ここまで悩む必要もないのだろうが。
「せめて足手まといにならないくらいにはなりたいな……」
 ため息をつき、一人ごちる。一応弓道有段者ではあるのだが、あれはあくまでも武道としての腕前であって、実戦では動作が遅すぎて役に立たないだろう。顧問の話によると、弓道は実戦向きの武道ではないらしい。構えだなんだとやっている間に討ち取られるから、形なぞにこだわらず、できる限り早く矢をつがえることが求められるのだという。
 実際戦国時代の映画なんかを見ていると、弓道でも使用する弓を使っているが、引くときの形に気を遣う人間は誰もいない。当たり前だ、悠長にそんなことをしていたら斬られることくらい、現代人の光矢でも分かる。
 ゆえに、現在の光矢のスキルでは足手まとい以外の何者でもない。構えや型関係なく、素早く矢をつがえるようにならなければ。もちろん、通常の『弓道』の型が崩れないように注意しながら、ではあるが。妙な癖がつくと、それを抜くのは難しい。実戦と武道の両方がこなせるようにならなければ。
「難易度高……練習するか……」
「光矢君、練習するなら私も一緒にしていい?」
 と、独り言を聞いていたらしい那月が尋ねてきた。首をかしげ、前髪の隙間から光矢を上目遣いで(たぶん、ではあるが)見つめている。
「え?」
「自主練習、一緒にしようよ。他に誰かいたほうが、たぶん上手になるのも早いと思うの」
 悪いからと断ろうとして、光矢はふと思いとどまる。部活のメンバーで、事情を知っているのは那月しかいない。清志や学を誘って、万が一にでも巻き込まれたら。
 しかし、那月だから巻き込まれてもいいというわけではない。自分の身を省みずに飛び込んできてくれた少女、その心に応えたいのだ。そばで見守る少女のことを、自分にできるやりかたで守りたい。もう逃げない。自分は既に渦中にあるのだから。背を向けることは許されない。ならば、前を向いて戦うしかない。
 ここに、帰ってくるために。帰る場所を守るために。
「うん、ありがとう、那月さん」
 感謝の意を込めて手を握れば、那月はあっという間に真っ赤になった。
「先輩、龍川さん。俺も、足手まといにならないようにがんばってみます。今からじゃ、ちょっと遅いかもしれないけど……せめて、簡単に捕まらないくらいまでには、体力とかつけたいと思います」
 二人とも、同じタイミングで瞬きした。それから互いに顔を見合わせ、再び光矢へ目を戻す。豊高がどこかおかしそうに笑い、手をひらひらと上下させた。
「んー、いいねぇそーいうの。せーしゅんってやつだねぃ。俺そーいうの大好きよー。思い切りやっちゃえばいーじゃない! ゴーゴー! ひゅーう、光矢クンかっちょいー」
 ちょっと鬱陶しいが、賛同は得られた。
「馬鹿か、てめェは。遅ぇっつンだよ」
 一方の武は呆れたように眉を下げている。それからいかつい肩をすくめて、新しい煙草に火をつけた。唐突な提案に、怒ってはいないらしい。
「す、すんません……」
 いつもの癖で謝れば、馬鹿違ェよ、と怒られた。いや、怒ってはいない。さえぎられた、が正しい。と思う。
「目標がちいせぇンだよてめぇは。足手まといじゃなくて、せめて主戦力になりますくれェ言えねぇのか」
「いやー……ははは、じゃあ、それでがんばってみます」
「あまり無理だけはするんじゃないよ。俺は何もできないけれど……その努力が実を結ぶことを祈ってる」
 実兄の言葉はいつも通り優しい。それに同調するように、足元のヘクトルが一声吠えた。
 彼らは戦えない。ここで全ての結果を待ち、全ての決着がつくのを待つしかできないのだ。それに出来うる限り応えなければならない。そのためには――勝つしかない。
「ありがとな、兄貴。ヘクトルも」
 隣にいた那月の指が、不意に握ったままの手を包み込んだ。それから吐息が耳に触れる。
「光矢君、がんばろうね。みんなのために……私も、応援する」
「ありがとう、那月さん」
 笑顔と共にそう返せば、那月は再び真っ赤になってうつむいた。手のひらの中にある彼女のそれが、ゆっくりと暖かくなっていく。この華奢な手のひらを、光矢は何となく好きだな、と思った。

(2009.12.6)

其ノ4「辿醒者」

其ノ2「戦臨者(上)」

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