四-si- 


 先の名残か、部屋の空気は少しだけ湿っていた。
「噂には聞いていたけど……そっか、龍牙……死んじゃったんだ」
 隣にある熱が優しい。虎牙は細い指に己の無骨なそれを絡めていた。ほんの少しだけ高い体温は、心を落ち着かせる。
 空いた手で虎牙の髪を梳きながら、翠憐が寂しげに呟く。
「龍牙は出来た親父だったと思うわ。絶対に相手のことを殺さなくて、それで自分も他人も守れる人だったから。すごく強くなくちゃ、そんなことできないもの」
 あぁ、と虎牙は相槌を打つ。
 無益な殺しはしない。『上海の龍』とまで呼ばれた男の、絶対の誓い。命を奪うのはたやすい。だが、命を奪わせないように守るのは、それよりもはるかに難しいことだ。甘いと嗤われ、馬鹿にされてもなお、龍牙は誓いを貫いた。貫いてなお、龍牙は強かった。
 だから羨ましかった。だから妬ましかった。龍牙に最期まで守られて初めて、その壁の大きさに気づいた。龍牙の存在の大きさに、気づいた。
「強くなりたい」
 翠憐の手の甲に額をつけ、虎牙は呻く。
 誰かに守られるだけでなく、誰かを守れるようになりたい。龍牙のようにとは言わない。せめて、自分の周りにある大事なものを、翠憐を守るだけの力が欲しい。
 そう告げれば、翠憐は大きな瞳を細めて微笑った。
「嫌だわ。あたしだってここで生きてきたのよ、自分の身くらい自分で守れるわ。本当に最低限のことしかできないけど」
「それを言われちゃ俺の立つ瀬がねぇじゃねえか、何のための告白だよ」
 ふてくされて唇を尖らせると、翠憐の指が突き出した部分をつねる。
「馬鹿ね、ちゃんと考えてよ。最低限しかできないって言ってるじゃない。それ以外のところはあんたが守ってねって」
「嘘だ、絶対そんなこと言ってねぇ」
 指を払って抗議する。翠憐は小さく肩をすくめ、にらみつけてきた。
「ちょっと深読みすれば分かるじゃない。頭はいいんだから、ちょっとは使いなさいよ」
「お前が分かりにくいのが悪い」
「出た、虎牙の得意技責任転嫁。馬ー鹿、無責任、だからあんた敵ばっかなのよ」
「何だと」
 頬をつねる。翠憐も負けじと髪を引っ張ってきた。しばらくにらみ合い、やがてどちらともなく噴き出す。もう一度指を絡め、肩を寄せ合った。
「ねえ、虎牙。これからどうするの」
「これから?」
「あたしたちのこれから」
 翠憐の後ろにある窓を見やる。漆黒の空には、欠けた月がかかっていた。弱い光は翠憐の黒髪を淡く照らし、柔らかな光沢をつけている。白い布地にも蒼く影を落としていた。
「そうだな……とりあえず、ちゃんとした家でも見つけようぜ。何なら表へ出て、きちんとした職に就いてもいい」
「そっか」
 翠憐がくすぐったそうに笑う。この娘は、笑うとひどく幼くなるのだった。
「それなら、お世話になった人に挨拶していかないとね。あたし、暁美小姐にお礼言わなくちゃ」
 聞いたことのない名前だった。虎牙は眉を寄せ、問う。
「誰だ、それ」
「あたしが悪い人にさらわれて売り飛ばされそうになったとき、助けてくれた人。結局は娼婦になるしかなかったんだけどね……でも一生懸命、それ以外の道も探してくれたの。そう言えばあんた、あたしと会う前に話してたじゃない」
「いやいや、あっははは」
 乾いた笑いが漏れた。まさか鬼婆だの角がどうだのと思った相手がそうだったとは。あまつさえ怒らせてしまったのだが、これはつまり敵に回したことになるのだろうか。
「暁美小姐は結構気性が激しいから、怒らせないようにしなくちゃ駄目よ」
 戦闘突入と考えて間違いない。推測が確定になった時点で、前面交戦はまず避けられないだろう。ならば徹底的にやるしかない。幸いに翠憐はこちら側にいるわけだし、いざというときは説得してもらえばいい。
 我ながら情けないとは思うものの、これも仕方のないことだ。とりあえず諦めることにした。
「虎牙、あんたにはお世話になった人とかいないの?」
「俺は」
 答えかけて、虎牙は言葉を詰まらせる。
 宵黒幻。人を人とも思わぬ男。致命傷でも死なず、無差別に命を屠る化け物――
「いねぇよ」
 とっさに口をついた言葉は、自身でも驚くほどにかすれていた。誤魔化すために小さな手のひらを包む。華奢なそれを、壊れないように握る。一呼吸の間の後に、翠憐が優しく握り返してきてくれた。
 確かに黒幻には世話になった。二度も命を救われている上に、恩はまだ返せていない。だがそれでも、だからこそ余計に、翠憐を会わせたくなかった。妖魔を、人間ですら躊躇いもなく殺す相手なのだ。何をされるか分からない。
 第一虎牙がいなくなったところで、あの男が気にするはずもない。互いのためを考えるなら、別れを告げないほうがいいだろう。
 翠憐は沈黙した虎牙を不思議そうに眺めていたが、言及はしてこなかった。
「いないならいいんだけど」
「ああ、悪いな」
 気にしないで、と言って、翠憐はまた笑う。虎牙もつられて、笑った。

 賓館を出て虎牙が最初に気づいたのは、周囲の圧倒的な静けさだった。普段のこの時間帯ならば、辺りは露店や娼婦を求める男たちで賑わっている。
 しかし今、聞こえるのは互いの息遣いと足音のみだった。さすがに翠憐も不安なのか、虎牙の服の裾を握り締めている。沈黙と闇とがのしかかってくる。息苦しささえ覚えるほどだ。
「静か過ぎる……他の奴ら、どうしたんだ」
 一人ごちた虎牙の鼻が、かすかな異臭をとらえた。先ほどまでいた路地から漂ってくる。鉄錆にも似たそれは、散々嗅ぎ慣れているはずの血の臭いだった。
 本能が脳の奥で警鐘を鳴らしている。知らずのうちに足が強張り、気を抜けば立ち止まりそうになる。体に余計な力が入っている。人の気配が無い。誰もいない街。血の臭い。嫌な想像ばかりが先行する。
 不意に、翠憐が短い悲鳴をあげた。虎牙も目を凝らし、そして愕然とした。
 壁を汚している鮮やかな色は、人間の体内を巡る色に他ならなかった。量が半端ではない。人一人分を撒き散らしてなお余る。ゆうに十人、否二十人、否それ以上。壁だけでない。狭い路地を満たす血液は、遠目から見ても明らかに多かった。
 路地だけではない。今虎牙らが立っているこの大通りも、同じような状態になっている。乱立する大楼の壁にも、不自然な染色が施されていた。路地裏のような光景になっていないのは、道が広いため分散されたからだ。
 足で立っている人間は一人もいない。全てが須らく、人の形を保っていなかった。自らが流した体液に浸かり、体内に詰まったものをぶちまけ、晒し、ただの肉塊と成り果てていた。
「し――暁美小姐!」
 翠憐が虎牙の陰から飛び出す。少し先、虎牙が女と口論した箇所に溜まる血の池に駆けていく。黒い髪に留められた髪飾りが、弱く月光を弾いた。
 身にまとっていただろう布は、既に衣服としての機能を果たしていない。それでもなお彼女だと分かるのは、徹底的に切り刻まれた臓腑に埋もれる金属製の装飾品だった。
「どうして、何でどうして!? 誰が、誰がこんなことをしたのよ!」
 翠憐の叫びを、石と鉄骨で作られた建物が砕いていく。
「ひどい、どうして、こんなの、こんなのって! 暁美小姐、暁美小姐、返事して、お願い、嘘だって誰か言ってよぉ!」
 叫びは慟哭となり、慟哭は涙に沈む。
 妖魔に襲われたのかもしれない。それならば、ここではごく当たり前である。弱いものは喰われる。死が隣り合わせの世界なのだから。
 それでも割り切れないことはある。大切な人が死んだならば、それはなおさらだ。かける言葉が見つからない。
 腕を伸ばし、泣きじゃくる翠憐を抱きしめる。腕の中に納まった温もりは、救いを求めるように虎牙にすがった。
 と、視界の端で何かが動いた。生存者かもしれない。期待を込めて顔をあげ、直後に思考が凍りつく。
 もつれた長髪もそのままに、緩慢な足取りで歩いてくる小柄な体躯。黒絹は赤みを帯びて湿っている。蒼白い肌は粘着質の液体にまみれていた。手には巨大な刀、その刃は漆黒。細いというよりは痩せぎすで、いっそ痛々しい。年は二十代、作り物めいた美しい顔には、感情の一欠けらもなかった。瞳だけがぎらぎらと燃え、異常な輝きを帯びている。
 妖を狩り人を守る一族、『妖狩』宵黒幻。賓館にいたはずの、虎牙の命を救った張本人だった。
 突如、皮膚が粟立った。項の毛が逆立ち、冷や汗が一挙に流れ出していく。筋肉が極度の緊張で痙攣を起こしていた。氷の矢どころの話ではない。それよりもさらに冷たくざらついたものが、虎牙の意識を食い破り停止させていく。
 黒幻の目が、翠憐を捕らえた。足は止まらない。点々と、後を追うように紅い跡が道に染みた。引きずられる刀が音を立てている。近づいてくる。翠憐もまた、黒幻を見た。骨の浮いた手伸びる。翠憐の髪をつかみ、引いた。
「あ――」
 愛しい女の最期の声は、恐怖に引きつった単語一文字だった。
 翠憐の体が虎牙にもたれかかる。噴水のように、生温かい液体が虎牙の頬を濡らしていく。黒幻が振りぬいた腕を返し、右手につかんだモノを掲げる。手にしていた得物を地に落として、髪の一部を引きむしる。黒い流れが千切れる。糸が千切れるのにも似ている。白い指に絡まっている。間に見えるのは髪飾り。不透明な緑の石と、金の台座の。胸もとが湿っている。温かい液体が、伝っていく。
 ごとりと重い振動があった。見開かれた目は空を仰いでいる。潤んだ瞳、大きな目、長いまつ毛に縁取られた眼、抱いた体には首が無い。硬い地面に転がされた、女の頭がある。黒幻が薄っすらと、唇に笑みを刷いた。
 死んでしまった。今の今まで生きていたものが、こんなにもあっさりと死んでしまった。一緒に生きようとしていた娘が、守ると誓った娘が死んでしまった。
 なぜ。
 殺されたからだ。
(殺された?)
 虎牙は呆然と、胸中で繰り返す。
(誰に?)
 誰に。
 視界に映るは、笑う男。そうだ。目の前で笑っているこいつに殺されたのだ。
 徐々に冷えていく肉体は、既にただの死骸だった。
 温度を失っていくそれと相反するように、虎牙の胸の奥で熱がはぜた。
 抗い難い波が理性を嘗め尽くしていく。足先から頭上へと、頭上から足先へと突き抜けていく。はぜて荒れ狂い、そして凶暴な衝動となって虎牙の体を突き動かした。
 体重を前にかける。寄りかかっていたものが倒れる。音は聞こえなかった。耳鳴りがする。視界が急激に紅く濁っていく。黒幻の姿だけが鮮明だ。手には刀がある。あれを奪えばいい。奪えば後は簡単だから。
 地面を蹴り上げた。一息に詰め寄る。黒幻が気づいた。腕を伸ばす。凶器をもぎ取った。思ったよりも軽かった。左手を相手の鳩尾へと叩き込む。吹っ飛んでいく。受身を取って着地された。手にした刀を水平に構える。心臓の位置はどこだ。どこだっていい。楽になど死なせてやるものか。翠憐はもういない。もういない。殺された。奪われたのだ。奪われたのだ。代償に奪うことの何がいけない。
 相手の薄い胸へ切っ先を向ける。感情に体がついていかないのか。腕がぶれる。呼吸音は獣に似ている。丁度いい。自分は虎だ。今更一人喰らったところで何が変わるわけではない。
 咆哮をあげる。刃を相手へと突き立てる。鍔に当たるほどに深く。骨を砕くほどに深く。渾身の力を持って貫いた。
 雨が降り出した。辺りが煙るほどに強い雨だった。全身をたたく雫の温度が、たぎっていた虎牙の衝動を鎮めていく。
 握ったままの柄を離した。二、三歩後退する。黒幻は刀に貫かれたまま立っていた。漆黒の刃が、彼の肩を穿っている。根元からはとめどなく血が溢れ、雨に溶けて流れ出していた。
 こんなことをしても何になるというのだろう。奪われた命が返ってくるわけでもないのに、相手を殺したところ意味があるのか。例え黒幻を殺したところで、翠憐は永遠に帰ってこないのだ。
 翠憐の体を抱えた。雨に濡れたせいか、生きた者の温もりは完全に消え去っていた。頭を拾い上げる。開いたままの瞳を伏せてやって、体の上に乗せた。
 埋めてやらなければ。虎牙は黒幻から視線を外し、反対方向へ足を向けた。黒幻は追ってこなかった。
 少し行った先の広場に、鉄屑の捨て場がある。屑の山の下に、むき出しの土があることを虎牙は知っていた。瀝青(アスファルト)が所々剥がれて、ほんのわずかな土が覗いている。誰かが悪戯で剥がしたのかもしれないし、自然に剥がれ落ちたのかもしれない。どちらにしても、まだこの場所に土が残っていることに感謝した。
 雨は小降りになり、霧雨になっていた。無理やり瀝青を剥がし、無心に土を掘る。傍にあった鉄骨を使って掘り進める。できた穴へ翠憐を横たえ、土をかぶせる。大分水分を含んでしまってはいたが、完全に泥になる前にはかぶせ切ることができた。先ほど剥がした瀝青を上に乗せる。少しだけ迷ってから、手にしていた鉄骨を墓標代わりに刺した。
 天から降り注ぐ水が、彼女の名残を洗い流していく。やがて雨と共に地下水に混じり、海へとたどり着くのだろうか。
 思い出したかのように、涙が零れた。
「翠憐……ごめんな」
 声を殺し、嗚咽もあげぬまま、虎牙は静かに泣いた。鈍色に垂れ込めた空を仰ぎ、翠憐の埋められたそこに立ち尽くしていた。

 どれほどの時間が経ったのだろう。雨は止まないが、大分平静を取り戻せていた。鉄骨を撫で、きびすを返す。返して、背にした墓標へ誓う。
「強くなるから」
 守りたかったものが、二度も守れなかった。だから三度目は繰り返さない。誰というわけではない。何というわけではない。無力さのせいで失った大事なものたちのために、強くなる。
 もうこれ以上、守られて失うことも、守れずに失うことも無いように。
「強くなったら、もう一度逢いに来るから」
 拳をつくり、瞑目して再度反芻した。強くなってみせる。失ったもののために、絶対強くなってやろう。翠憐のために。龍牙のために。そして、自分のために。
 目蓋を持ち上げた刹那、甲高い叫び声が轟いた。生理的な嫌悪を催すそれは、人間の断末魔にも似ている。妖魔の鳴き声だ。重なるように次々と叫びはあがる。場所は空、しかも複数いる。
 虎牙は上空を仰いだ。遠くでよく見えないが、影がひしめいている。先ほどまでいた大通りを目掛けて下降しているようだった。
 何かあったのか。広場を後にし、先刻来た道を走り戻る。雨粒が顔に当たり散っていく。何度も垂れてくる髪を払い、なお急いだ。耳障りな鳴き声が迫ってくる。はるか彼方より飛来する影は、既に数え切れぬほどにまで膨れ上がっていた。
 飛び出した大通りの中央に人影がある。黒幻だ。耳を塞いでうずくまっている。傍目から見ても気づくほどに震えていた。肩に突き刺さっていた刀は、いつの間にか無くなっている。
 虎牙は警戒を緩めず、速度を落とした。風が強く吹きつける。思わず顔をかばった。
 ふと、声が聞こえた気がした。足が止まる。すぐ前に黒幻がいる。肩の傷もそのままにして、小さく縮こまっている。
 虎牙は膝をついてかがみ込んだ。表情は髪に隠れて見えないが、髪の間から覗いた唇は確かに動いている。
「……か」
 かすれた吐息が、音を紡ぎ出す。下手すれば風の音にも雨の音にもかき消されそうなほどに、弱く、小さな囁きだった。
「誰……か」
 何を言おうとしている。今、ここで、一体何を思っている。虎牙は思わず黒幻の肩をつかみ、口元へ耳を寄せた。
「誰か、俺を」
 紙のように白い頬を、常闇のように黒い髪の毛を、冷たい雫が濡らしていく。
「俺を、……」
 黒幻を促す意味を込めて、今一度手に力を入れて引き寄せた、そのとき。
 黒幻は強く耳を塞ぎながら、本当に小さく、細く、しぼり出すようにして叫んだ。

「誰か俺を止めてくれ」

 どういう意味だと、問いかけることは許されなかった。
 頭上を影がよぎる。もうここまで来ていたのか。意図的に乱された風が、虎牙の体をたたいていく。鳴き声が木霊し、重い羽音が押し寄せてくる。
 黒幻に目を戻す。依然としてうなだれたまま、手をだらりと下げて座り込んでいる。動こうとする意志はまるで感じない。
 まさか。とっさに邪魔な髪をかき分けて瞳を見れば、もうそこに意思の光は無かった。気を失っている――そう悟った瞬間、虎牙は黒幻の腕をつかんで引っ張りあげていた。
 手のひらが血液で真っ赤に染まる。構わず背中に担ぎ上げる。密着する体は驚くほどに熱を持っていた。
 妖魔の爪が、黒幻の座り込んでいた箇所をえぐった。このままでは狙い撃ちにされる。虎牙は疲れきった足に鞭打ち、駆けた。どこまで逃げ切れるかは分からない。
 がむしゃらに走る虎牙の背中に、きつく爪が立てられた。

(投稿日:2007.7.14 最終訂正:2008.3.25)

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