五-wu- 


 賓館に駆け込んだと同時に、妖魔の気配が消えた。緊張が解け、虎牙は賓館の入り口に座り込む。黒幻の体が背中から滑り落ち、崩れ落ちた。
 濡れ鼠の虎牙らを見るや否や、賓館の主が文句をつけてきた。早口の上にどもり気味でいまいち理解できなかったが、要約すれば今までいた部屋はもう使えないとのことであった。なおもまくし立てる主に、虎牙は倍額の金を支払うことを提示する。
 主の口が一瞬止まる。何度も虎牙に確認した後、たるんだ頬を嬉しげに緩ませた。あからさまな態度の変化に失笑を覚えつつ、新しい部屋の鍵を受け取る。ついでに乾燥室と包帯の手配を頼み、部屋へ引き上げた。
 濡れた衣服を備え付けの籠に突っ込み、軽く湯を浴びてから着替える。気に入っている夾克(ジャケット)だけは替えが効かない。悩んで、籠の縁へ引っ掛けた。愛用の圍巾は水気を絞って額へ巻きつけ、それから黒幻の手当てに入った。
 今まで彼が着ていたものは、血が固まっていて使い物にならなかった。絹のそれを捨てるのは気が引けるが、処分するしかない。地板へ放り出し、部屋に入る前に主から手渡された新たな旗袍を手にする。どれも上質な絹で出来ていた。一体どこから調達するのか想像もつかない。
 ともあれ、手当てが終わらないことには着せられない。乾いている下穿きだけ穿かせてから、包帯を傷口に巻く。一応湯で体を拭くも、肌は冷え切ったままだった。
 上掛けをかけようとしてから我に返る。
「……何してんだ俺は」
 相手は翠憐を殺した仇なのだ。なぜここまでやってやる必要がある。放置しておけば死んだものを、わざわざ助けてやるなど。自身の世話焼き加減が、今更ながら馬鹿らしくなってくる。
 黒幻は深く体を折り曲げ、床の上に丸まっていた。傷だらけの胸をせわしなく上下させている。虎牙に気づいている気配はない。
 昏い衝動が湧き起こる。仇を殺したところで何にもなりはしない。分かっている。分かってはいるが、それでも許せるわけがない。手を伸ばしかけて、ふと視界の隅に映る金色に気づいた。黒幻の手の中にある髪飾りだった。
 力なく添えられている指から抜き取り、しばし眺める。不透明な碧い石がはめ込まれている。名も知らぬ石の表面は、滑らかな光沢を放っていた。台座は金で出来ている。多少削れてはいるが、細かな彫刻が施されている。古ぼけて見えるのは汚れているからだろう。磨けば、元の輝きを取り戻すかもしれない。
 奥歯を噛み締める。翠憐の持っていたもの、黒幻が奪い取った髪飾り。これを奪うためだけに、翠憐は――あの場にいた人々は、殺された。たった一つの装飾品のために、大勢が命を踏みにじられたのだ。
「こんなもののために……!」
 握り締める。華奢なそれが、抵抗するように手のひらへ食い込んだ。皮が破れたか、鋭い痛みが走る。砕いてしまおうかとさらに力を込めたとき、誰かの腕が空を切った。
 反射で身をひねり、後退する。誰かなど、言われずとも分かっている。
「返せ」
 投げられた音は、相も変らず冷たかった。虎牙の体内を、再び怒りが支配する。
「詫びの一つもねぇのかよ」
「意味が分からんな。いいからそれを返せ」
 やっとの思いでしぼり出せば、それを嘲笑うように黒幻が吐き捨てた。わずかに瞳をすがめ、こちらをねめつけている。
 怒りのあまり、目の前が徐々に赤みを帯びてくる。
「ふざけるな!!」
 壁に拳をたたきつけた。反動が直接骨に響く。
「俺の大事なもんを奪って、誰かの大事なもんを奪って!! てめぇ、自分が何したか分かってんのかよ!? 自分がどういうことをしたのか、分かってんのかよ!!」
 虎牙の怒声が部屋に散り、残響を伴って消えていく。雨音がしばしの時を埋める。
「おかしなことを言うな、貴様は」
 唐突に放たれた言葉には、さもおかしそうな色がにじんでいた。黒幻の秀麗な顔にも、薄く笑みが貼りついている。
「俺はただ、貴様らに奪われたものを取り返しているだけだ。元々は彼女の持ち物だった。だが彼女を貴様ら人間が奪った。妖魔が奪った。だから奪い返している」
 瞳の蒼に狂気を宿して、黒幻は続ける。
「俺は人間と同じことをしているだけだ。それのどこがいけない? 当然のことをしているだけだろう?」
 急速に、全身から血が引いていく。体をうまく支えきれない。よろめいて、踏みとどまった。
 会話が、かみ合わない。表向きには受け答えがなされている、しかし何かがかみ合わない。何かがおかしい。
「お、前……」
 思わず口にした言葉は音にならず、かすれた呼吸音が通り過ぎるだけだった。

 賓館を飛び出したのは、つい数刻前のことだ。黒幻の発言に戸惑い、問いすら投げられず、気づけば足が外に向いていた。
 ひたすらに歩いていく。雨は止み、陽が昇っている。濡れたままの夾克だけが重く肌にのしかかっている。
 頭の中身がこんがらがっている。うまく考えがまとまらない。考えたかったのかもしれない。ただ衝撃を受けただけなのかもしれない。どちらにせよ、混乱かけた意識を鎮めるためには、あの部屋以外の場所でなければならなかったろう。
 矛盾している。あれだけではない。以前からのものも含めて、矛盾している。奪われたから奪い返すのだと言う。奪い返すのは当然だと言う。守る価値が無いから斬るのだと言う。なのになぜ、止めろと言う。寂しそうに嗤う。
 大体なぜ奪われる痛みを知りながら、奪うことをやめないのだろう――分からない。彼の本心が、宵黒幻という男自体が分からない。晴れない霧の中に迷い込んだような煩わしさが、虎牙にまとわりついてくる。
 助けられたという恩も、自分に目覚めたという力も、いっそ全て無に返せたらいいのに。ふと、そんなことが脳裏をかすめる。どこか遠くへ行ってしまおうか。ここを捨てて、黒幻を置いて、翠憐の面影を抱いて、龍牙の教えを抱いて、旅に出てしまおうか。
(――逃げるのか?)
 唐突に胸中から落ちた声に、虎牙は立ち止まる。
(起こったことから逃げても、現実は何も変わりはしないだろう?)
 ああまったくその通りだと、舌打ちした。
 黒幻と関わったことも事実。翠憐が黒幻に殺されたこともまた、事実。例え無かったことにしても、それはあくまで自己完結に過ぎない。今更逃げたところで、起こってしまったことを変えることなどできやしない。それならば、現実を見据えて受け入れ、これからを考えるのが重要なのではないのだろうか?
 ならば一体何ができるというのだろう。あの男に、これ以上無駄な殺生をさせないようにすることか。どうやって? 説得など聞きはしないだろう。体を張って云々では本末転倒、斬り殺された後はどうなる。さらに暴走するに決まっている。どうすればいい。やはり、逃げるしかないのだろうか。
 結局堂々巡りだった。これでは何も考えていないのと同じだ。どちらが正しい道なのか、どちらを選べばいいのか、虎牙には判断することができなかった。
 苛立ち紛れに壁を蹴りつける。靴裏を通して這い登る痛みは、余計虎牙を不快にさせるだけだった。雨上がりの埃のにおいは、陽にあぶられて消えかけている。
「あぁ畜生、どうすりゃいいんだよっ!」
 毒づき、再度混凝土(コンクリート)へ攻撃を喰らわせる。
 と、虎牙の耳に女の笑い声が滑り込んできた。鈴を転がすような、とはこのことを言うのだろう。
「坊や、ちょっといい?」
 振り向いて確認する。やはり女だった。虎牙の顎の辺りまでしか身長がない。上着は襟を右前に打ちあわせた、裾の長いつくりをしていた。袖も大き目である。紗の腰帯を巻き、帯の上からは数本飾り紐を括りつけている。柔らかそうな布で出来た裙子(スカート)をまとい、薄い紅色の被肩(ショール)を腕へ絡ませていた。
 艶やかな髪を後頭部できつく結い上げ、金のかんざしを挿している。柄から下がる金属の飾り板が、動くたびにしゃらしゃらと鳴った。衣装の割りに、全体的に華奢な印象を受ける。成人もしているだろうが、顔立ちはどちらかと言えば愛らしい。
 否、顔はこの際どうでもいい。虎牙は眉を寄せ、女を眺め回した。
 龍牙がいつぞやに押し付けられて困っていた、絵の中の女と同じ衣装だった。確か、唐時代の格好をした女を描いたものだとか、そうじゃないとか言われていた気がする。
 当の龍牙は「生身の女が欲しい」と文句を垂れて、挙句その絵を売り払ってしまったのだ。相当高値だったことを覚えている。
 ともかく今の世の中、こんな格好をしている者など普通はいない。時代錯誤もはなはだしかった。場違いもここまで来ると怪しいことこの上ない。
「ごめんなさいね、考え事の邪魔しちゃって」
 虎牙の視線を知ってか知らずか、女は袖を口元に当ててころころと笑った。
「ちょっとね、聞きたいことがあって」
 極力関わりたくは無いが、逃れることも出来なさそうだった。仕方無しに体勢を直し、女に向き直る。
「何だよ」
「坊や、どこから来たの? どこの人?」
「あっちの賓館から」
 今までいた方角を示す。
「そう」女は一度そちらへ目をやり、再度戻した。「私のね、夫を探しているの」
「旦那?」
「ええ。私の夫よ。坊や、知ってるんじゃないかと思って……これくらいの身長で、女物の旗袍を着ていて、細いのよ。知らない?」
 問いの形を取っているくせに、なぜか確信の響きを帯びていた。虎牙が知っていると見越した上で、あえて尋ねている風にも思える。
「……知らねぇな。他を当たれ」
「いいえ、知ってるでしょう? だってあなた、血の臭いがする」
 不意に、薄気味悪さに襲われた。女は淡く微笑んで、首を傾ける。しゃらり、とかんざしが音を立てた。端から見れば可愛らしい仕草だ。が、何かがおかしかった。中身と外身が合っていないような、歯車がかみ合っていないような違和感がある。
「知っている、でしょう?」
 冷気が肌を刺す。ぐ、と唾液を飲み込み、首を横に振る。筋肉が強張っているのが感じ取れた。体が不自然に緊張している。
「……知ら、ねぇ」
 何とかひねり出した声に、女は残念そうに肩をすくめた。
「そう……残念だわ。それじゃあ違う人に聞くことにするわね」
 女はあっさり身を引き、優雅に歩き去っていく。服の裾が、まるで踊るように揺らめいた。
 冷や汗の浮いた額を拭う。今の威圧感の正体は、女が去った後でもつかめない。場違いな衣装といい、確信めいた物言いといい、一体何者なのだろうか。
「あの女、あっちに行ったよな」
 今まで自分が歩いてきた方へ目をやった。大分遠くはなっていたが、真っ直ぐな路地の突き当たりにある賓館が見える。何となくきびすを返し、虎牙は元の道を戻ることにした。

 虎牙を認めてか、賓館から転げ出すように主が寄ってきた。次いで二三人、人影が外に走り出てくる。
「どうかしたのか?」
「どうもこうも、人妖が出たんだ!」
 賓館の入り口から、遅れて出てきた一人が怒鳴っている。
「俺たち以外はみんな殺されちまったよ! 一人まだ抵抗してる奴がいるみたいだが、もう駄目だね!」
 人妖。妖魔らの上位に位置する妖のことを示す。その姿は人間と大差ない。知恵と知能と人の言葉を駆使して紛れ込むことを得意とする。人と見分けがつかない分だけやっかいな相手でもある。
 一部屋の窓が激しく震えている。自分らがいる部屋だとは一目瞭然だった。ということは、黒幻が始末をするだろう。下手したら、生き残った人々まで巻き込まれる。
 今なら逃げられるのではないか。混乱に乗じてしまえば、知られることもあるまい。遠くに行ってしまえば、もう関わらなくてすむ――どちらとも付かなかった虎牙の思考が、傾いた。
 人々の背を見送り、賓館の主も追い飛ばしてから、虎牙は再度賓館を眺める。もう会うこともないだろう男に、心の底で別れを告げた。
 その直後、玻璃の割れる独特の音が耳を突いた。もつれ合った影が落ちてくる。一つは黒幻、もう一つは、
「さっきの女……!?」
 被肩と袖を蝶のごとく翻し、女が中空に舞っている。舞いながら腕を翻し、そのまま手を黒幻の肩へ突き立てた。包帯が破れて解けた。着地するや否や、女が手を乱暴に引き抜く。反動でふらつき、倒れこもうとする首を捕らえ持ち上げる。しゃらりしゃらりとかんざしが鳴る。
「抵抗しないのね。つまらないわ」
 無邪気に笑い声を立てながら、女は男の首を絞めあげていた。黒幻の指は女の手首に添えられている。引き剥がそうとしているようには見えない。
「あなたが愛した女の姿をしていても、斬られると思ったのに。案外甘いのね」
 とっさに大楼の陰に身を隠し、成り行きを窺う。幸いにも、彼らが気づいた様子は無かった。
 黒幻の腕が手首から離れた。緩慢に女の頬を撫でる。幾度も幾度も、愛おしそうに撫でている。まるで恋人にする態度だ。愕然とする。中身が妖魔だと分かりきっているのに、殺される寸前だというのに、なぜ抵抗しない。疑問を幾度か繰り返し、唐突に気づいた。
 あの女、黒幻が愛した女の姿をしていると言わなかったか。抵抗しないのではなくて、するという選択肢すら存在しないのではないか。このままでは、確実に死ぬ。
 虎牙はまだ、決めかねていた。飛び出して止めるべきなのか、知らないふりをして立ち去るべきなのか、どちらが正しい道なのか。
「そうね。じゃあせっかくだし、いいことを教えてあげる」
 女は一息間を置いて、嗤う。
「嫌がるあなたの妻を連れてきたのは確かに村人たちだけれど、子を孕んだあなたの妻を連れてこさせて喰ったのは私よ。そうそう、髪飾りは上等だから、売れば生活の足しになるって教えたのも私。人間は本当に自分勝手よね。他人を排除するのに、何の躊躇いもない。自分がよければ全てよしの、自己中心的な生き物。それでも古の盟約に縛られて、人間のために生きる。人間を信じて、己を殺して、ね」
 黒幻が、誰かの名前を口にする。
「翠玉(ツィイー)」
 女は答えない。首を絞めながら、唄うように言葉を紡ぐ。
「それがこの様、この有様。人間は弱い。だからあなたを化け物と呼んでそう仕立て上げて、徹底的に排除し殺そうとする。あぁ、何て愚かなのかしら。何て卑怯なのかしら。何て臆病なのかしら。ちょっとだけ、あなたに同情しちゃうわ――最期にいい夢が見れて幸せでしょう? ああ、そうね。どうせ最期だし、お礼を言わせてもらうわ」
 女の口元が歪んだ。心底楽しくて仕方がないのだろう。可憐な外見にそぐわぬ邪悪な笑みを浮かべ、残酷なほどに優しく、彼女は告げる。
「ご馳走様でした。あなたのお子様とあなたの奥様、大変に美味しゅうございましたわ」
 黒幻の腕から力が抜けた。だらりと下げられた両手に武器は無い。虚ろに天を仰いだ彼の頬を、一滴の涙が伝っていく。弱々しい咳は、もはや空気の流れにもなっていなかった。
 女の吐いた台詞が、黒幻の台詞が、虎牙の脳を駆け巡る。
『俺はただ、貴様らに奪われたものを取り返しているだけだ』
 あの妖は、黒幻の妻を食ったと言った。黒幻の子どもを食ったと言った。黒幻が持っていた髪飾り、もしもあれが、奪われて売り払われた妻のものだとしたら。
『だから奪い返している。それのどこがいけない?』
 人間と共に彼の大事なものを奪ったと、妖魔は語った。もしもそれが、黒幻を偏った考えに至らしめる決定的な原因だとしたら。
『守る価値など、存在しない』
 信じていた相手に殺されそうになり続けてきたとしたら、どうなる。想像するには難くない。奪われ拒絶され、追いやられ裏切られれば絶望するより他にないだろう。矛盾を孕み、狂気すら垣間見えた言葉らは、嘘偽りなど一切無い黒幻の本心そのものに違いない。
 それでも、許されないことはある。許せないことはある。仕方がないで片付けることはできない。好いた娘の命を奪われているのに、許せるわけなどない。今後も黒幻を許さないだろうし、これから許すこともない。
 しかしもし、彼が奪い奪われるという憎しみの連鎖を、自力で断ち切れないでいるとすれば。ずっと誰かに呼びかけて、助けを求めていたとしたなら。助けを求めて、誰にも救われないで来たとするならば。
『誰か俺を止めてくれ』
 人間は、自分の理解力を超えるものに恐怖を抱く。想像を上回る強さへ怯え、結果として化け物と罵り、決め付け、消そうとする。虎牙自身、その感情は身に染みて理解できる。守れと言っておきながら、自分本位の理由で排除しようとする。だのに、いざ盾が壊れそうになれば誰も助けようとしない。
 それでは、あまりにも一方的過ぎる。自分勝手と言われても仕方がないではないか。
(――止めて、やる)
 彼が少しでも、自分がしてきたことを悔いる理由になるのならば。奪われる痛みを知っていても止められないならば、自分がそれを止めてやる。
 結果的に逃げることを放棄した形になるが、それでも構わない。選んだからには引き返せない。引き返せないなら、ぶつかっていくだけだ。
 虎牙は全身のばねを使い、女につかみかかった。

(投稿日:2007.7.14 最終訂正:2008.3.25)

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